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糸 5┃林 民夫

高橋漣 平成二十一年 東京


披露宴が終わり、参列者たちは式場のテラスでデザートを食べていた。
とにかく声をかけなければいけない。漣は葵の元に近づいていった。人波の中に一人ぽつんと佇む葵が見えた。葵は漣だけを真っすぐに見ていた。
なにを言えばいいのかわからなかった。漣は言葉に詰まった。

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「漣くん、久しぶり」
葵のほうから声をかけてきた。
漣は笑顔を取り繕った。
歩み寄って来た葵が立ち止まった。
「なにしてんの、園田は」
普通に話しかけた。なにごともなかったかのように。
二人の距離は幾分離れたままだった。葵はじっと漣を見つめていた。漣の瞳の中に中学生時代の面影を探しているかのようだった。
「今、俺、チーズ工房で働いてんだ」
「北海道?」
「うん」
「ずっと?」
「ずっと。東京来るの、今日、初めてだよ」
「……サッカーは?」
「サッカー? ああ、もう高校でやめちゃったよ」
「……世界で活躍するって言ってたのに」
「所詮俺なんてそんなもんだから」

なんでこんな話をしているんだろう?
なんで普通に話をしているんだ。漣は焦った。喋っているのは自分のことだけだった。あんなことは気にせずちゃんと生きて来たよ。そんなに立派なものにはなれなかったけれど、それなりに前向きに生きて来た。そんな自分を、印象付けたいかのように話し続けている。こんなことではない。話したいのはこんなことではないはずだ。これでは、中学生時代の、お互いなんとも思っていなかったクラスメイトが、たまたま友人の結婚式で再会した時の会話と同じではないか。

「園田は?」
あれからどうやって生きて来たのだろう。
「大学生。経営学部」
「すごいね。変わるよな、そりゃ。もう中学生じゃないんだから」
なに普通に話してんだ、俺は。突如、漣は懐かしいにおいに包まれた。葵がいつのまにかすぐ近くにいるのだ。目の前にいた。身体全体に汗が滲むのがわかった。

「曲がってる」
葵は、漣のネクタイを直していた。手つきが慣れていた。でも、その手は少し震えていた。なにごともなかったかのように振舞う漣に、葵が必死に距離を詰めているように感じられた。あの時、握り締めた冷たい手には、水色のネイルがほどこされていた。もう葵の手は冷たくないのかもしれない。視線を葵は感じたのだろう。
「もう中学生じゃないから」微笑んだ。

抱きしめたくなった。なんでもなくなんかなかったのだ。この八年間、いつだってこの時を待ちわびていたのだ。
心の奥にたたみこんでいた感情が露わになったのがわかった。
なにかを言わなければいけない。なにかを言わなければ、本当に、なにもなかったことになる。漣が勇気を出して葵に語り掛けようとした時、大きな声が聞こえた。

「いや、中学生の頃に出逢って、何度も別れて、また引っ付いて、いろいろあったんですよ、ここまで来るまで」
竹原が、参列者の会社の先輩と話していた。
「でも、こいつを一生幸せにします!」
「もう酔ってますから。すみません」
弓が恥ずかしそうに、竹原を連れて行った。
葵が小さく笑った。漣も笑った。中学生の頃と変わらない二人の関係だった。竹原が、空気を読まずに語り続け、もういいでしょ、うるさいよ、と、弓が適当にあしらう。美瑛の花火大会で出会った時から変わらない二人の姿だった。

葵がスマホを見ていた。メールが着信していた。
漣は未だに二つ折りの携帯電話だった。
「行かなきゃ」
メールを見た葵がぽつりとつぶやいた。
葵には葵の現在の生活があるのだろう。
「じゃあね」
漣は言った。なにがじゃあねだ。
「じゃあ」
葵は午後の陽光が降り注ぐテラスの向こうへ去って行った。
後ろ姿が大人になっていた。

あの時、園田葵は眼帯をしていた。
夜逃げ同然でいなくなった葵の住む場所を知り、上富良野駅で、竹原に三万円をポケットにねじ込まれ、列車で札幌まで一人でやってきた時だった。十二歳の冬。いつ雪が降ってもおかしくないほど、街全体が冷えていた。繁華街から少し外れた、飲食店の二階だった。弓は、住所まで聞き出してくれたのだ。古い階段を上った。軋む音がした。表札はなかった。震える手で呼び鈴を鳴らしても、誰も出てこなかった。

「漣くん」
背後で声が聞こえた。ビニール袋を持った葵が階段の下に立っていた。
「葵ちゃん……?」
三カ月ぶりに会った葵は、眼帯をしていたのだ。
葵は、近くの公園に移動した。家の前では話をしたくなかったようだ。ビニール袋には、カップラーメンとスナック菓子が見えた。百円ショップのビニール袋だった。
そして眼帯でも隠せない痣が見えた。明らかに誰かに殴られたあとだった。

「ごめん。俺、全然知らなくて」
本当になにも気づいていなかったのだ。
「中学を卒業したら働く」
もうすでに決まっていることであるかのように葵は言った。
「それまでは耐える。耐えるしかないから。どんな目にあったとしても」
強い意志のように感じられた。

俺はいったい今まで葵のなにを見ていたのだろう。漣は葵の手を握っていた。初めて握った。冷たかった。異様なほど冷たかった。

「行こう」
勢いよく立ち上がった。
「そんなところにいちゃ駄目だ」

絶対にこの手を離さない。漣は十二歳にして初めて世界に立ち向かった。
衝動的だった。なんの計画も立てていなかった。中学生の自分にできることは限られていた。両親の元に戻ってもすぐに引き離されるだろう。だから二人は家とは反対方向の函館方面への列車に乗った。雪も降って来た。夜になると、列車内はどんどん人が少なくなっていった。こんな時間に列車に乗ったことはなかった。このまま闇の中に吸い込まれていくかのようだった。どう見ても無謀な行動だった。これからどうすればいいのかわからなかった。漣は葵の手をずっと握り締めていた。不安を悟られたくなかった。
必死に考え、頭に浮かんだのが、あのキャンプ場のロッジだったのだ。

警察官たちに引き離され、二人の手が離れた瞬間が脳裏に蘇った。
雪に圧迫された胸の痛みさえ戻って来たかのようだった。
漣は突然結婚式場を飛び出した。
衝動的に走っていた。逃避行した時と同じだった。あれから一歩、一歩、慎重に生きて来た漣にとって、なにかに突き動かされるように走りだしたのは、久しぶりのことだった。このまま葵を帰してはいけない。このままではなにもかもが途切れる。俺はいったい今までなんのために生きて来たのか。漣は走った。

テラスを抜け、駐車場に出ると、葵の後ろ姿が見えた。
「園田!」叫んだ。久しぶりに大きな声を出した。
葵が立ち止まった。振り向くと、まだ葵は眼帯をしているのではないか、と思ってしまったほど、背中が弱々しく見えた。無論、眼帯はしていなかった。でも表情の中に、人が少なくなった夜の列車や、世界に二人だけ取り残されたようなロッジで、漣を無言で見つめていた時の葵の面影を見た気がした。

なにごともなかったわけじゃない。あれから八年間、想いを抱えながら、二人は、別々の道で生きてきたのだ。二人の物語は続いていたのだ。
「漣くんと会えてよかった」
葵の言葉に想いがあふれた。もう一歩踏み出そうとした時だった。すべてを断ち切るように葵は背を向け、車の助手席に乗り込んでしまった。外車だった。ベンツだ。運転席には男がいた。三十代ぐらいの男だった。精悍な顔つきをしていた。北海道にはいないタイプの男だ。まぎれもなく東京で生きている男だった。葵を迎えに来たのだろう。男は、漣に目もくれず、ベンツを発車させた。葵は漣を振り返ろうともしなかった。

もしかしたら今、俺は作り笑いをしているのかもしれない。漣は走り去る車を見つめた。

一度引き離された手は二度と元には戻らない。
二度目のチャンスはこの世界にはないのだ。わかっていたはずだった。この再会にひそかな期待をよせていた自分のあさはかさを笑うしかなかった。なぜ走ったんだ。いまさらなにを再び摑もうとしていたのか。

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もし二人の物語があったとしたら、これが終わりの光景なのだ。

東京の片隅。一月の陽光が降り注ぐ駐車場だった。東京の一月は春のように暖かかった。
漣はいつまでも立ち尽くしていた。

ここからどこに行けばいいのかわからなかった。

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