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50代になっても一晩に5回、セックスしていた小林一茶 #4 晩節の研究 偉人・賢人の「その後」

親鸞、徳川家康、平賀源内、小林一茶、西郷隆盛……。日本の歴史に燦然と輝く偉人たちですが、実は「意外すぎる晩年」を送っていたことをご存じでしょうか? 河合敦さんの『晩節の研究 偉人・賢人の「その後」』は、彼らの「その後の人生」にスポットを当てたユニークな一冊。教科書には載っていない面白エピソードがたっぷり詰まった本書から、とくにユニークな晩年を生きた偉人たちをご紹介しましょう。

*  *  *

「性豪」だった江戸を代表する俳人

すでに一茶は五十一歳になっていたが、まだ独身だった。そこで翌年、二十八歳になる妻を迎えたのである。名をきくといい、野尻宿の新田赤川の常田久右衛門の娘であった。

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その日記には、「五十二にして初めて妻帯す」と記し、「五十婿 天窓かくす 扇かな」と詠んでいる。その句を見ても、老年になって初めて妻を迎えるということに恥ずかしさを覚えていたことがわかる。

新婚生活については、「五十年一日の安き日もなく、ことし春漸く妻を迎え、我身につもる老を忘れて、凡夫の浅ましさに、初花に胡蝶の戯るるが如く、幸あらんとねがふことのはづかしさ」と期待と嬉しさで舞い上がっている。

しかも、結婚後の日記の末尾などに「三交」といった数字が登場してくる。これは、一晩における一茶の性交回数だと推定されている。

先述のとおり「五交合」という記録もあり、現代でいえば七十歳を過ぎたに等しい年齢なのに、いくら二十代の妻を相手にするからとて、すさまじい精力といえる。

日記には、山中へわけいって強精に効く薬草を採取したり、蛇の黒焼きを求めたりした記述が散見される。とにかく若き妻とのセックスが楽しくて仕方なかったのだろう。

ただ、日記には「妻に生理が来てしまった」と書いている箇所もあり、単に快楽を求めただけでなく跡継ぎが生まれるのを期待していたことがわかる。結婚して二年後の文化十三年(一八一六)四月、ようやく念願の男子が生まれた。千太郎と名づけられたその子は、不幸にも生後わずか二十八日で早世した

文政元年(一八一八)五月四日、長女のさとが誕生する。一茶はさとを溺愛したが、いくつか言葉をおぼえた翌年五月、痘瘡にかかってしまう。回復したように見えたので「笹湯の祝」(快気祝い)をしたが、その後もやせ衰えていった。一茶は熊胆などを飲ませて必死に看病したが、六月二十一日に夭折してしまった

文政三年十月、待望の次男の石太郎が誕生する。ところがその年の正月、生まれて九十六日目の石太郎が、母の背中で窒息死したのである。一茶は「石太郎が死んだのは、お前の過失だ」と妻のきくを激しく責めた。責められたきくもきっと辛かったろう。

61歳で天涯孤独になるも……

それにしても、生まれた子が一人として育たないのは、いったいどういうわけだろう。一説には、一茶が梅毒にかかっており、それが妻を通じて子に感染していたのではないかと考える学者もいる。

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文政六年四月、今度はなんと妻のきくが三十七歳の若さでにわかに亡くなってしまったのである。痛風だと思われていた彼女の病はいっこうに良くならず、だんだんと衰弱していった。実家へ帰して手厚く看病してもらったが、薬を受けつけずに吐瀉し続け、やがて弱り果てて息絶えた。

さらに不幸は続く。

同じ年の十二月には、前年に生まれたきくの忘れ形見である三男・金三郎も死んでしまったのである。きくが病気になったので、知人の娘で乳が出る女性に金三郎を預けていたのだが、きくの葬式時に久しぶりに会ってみると、骨と皮になっていた。驚いて一茶が真相を問いただすと、本当は乳も出ないくせに、養育料ほしさに金三郎を引き取り、水ばかり飲ませていたことが判明したのである。

一茶はすぐに違う乳母に預け、いったん元気を回復した金三郎であったが、結局、死んでしまった。一歳九カ月の短い生涯だった。

こうして六十一歳にして、一茶は天涯孤独になった。

だが、一茶の精神は強靭であった。

その運命をしっかり受け入れ、文政七年から再び嫁探しをはじめたのだ。

こうして飯山藩士田中家の娘・雪(三十八歳)と結婚するが、うまくいかず、わずか三カ月でスピード離婚となった。そのショックからか同年、一茶は中風の発作を起こした。今回はひどい発作で、言葉も不自由になり、朝起きると尿を漏らしてしまっていることもしばしばだった。ところが文政九年には、連れ子のいるやをという三十二歳の女性を妻に迎えているのだ。なんというたくましさであろう。

しかし、翌文政十年、柏原村の大火で一茶の屋敷も焼失。夫妻は仕方なく焼け残った土蔵で生活する。さすがの一茶もこれには落胆したようで、再び中風の発作におそわれ、同年十一月十九日、土蔵の中でその生涯を閉じた。六十五歳だった。

当時やをは一茶の子供を妊娠中で、翌年四月、やたという女子を産んでいる。どうやら一茶の精力は、最後の最後まで衰えなかったようだ。

ちなみに一茶の娘・やたは、他の子供たちとは違って、奇跡的に成人した。そして宇吉(弥五兵衛)という婿をとり、三男一女を産み、そのまま小林家を存続させたのである。きっと一茶が生きていれば、心から喜んだであろう。

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晩節の研究 偉人・賢人の「その後」 河合敦

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