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糸 3┃林 民夫

竹原直樹 平成二十一年 東京


本当は秘密にするつもりだった。
今日まで黙っているはずだった。漣の驚く顔が見たかったからだ。
でも一刻も早く知らせてやりたくて、電話してしまった。
だって漣は結局のところ、八年間も、あの時のことを忘れられなかったのだから。

竹原直樹は、タキシードを着た自分の姿を鏡に映した。
「似合わねえな」口に出して、少し笑った。

弓との結婚に両親はあきれていた。あたりまえだ。無断で家を飛び出して、消息不明だった息子が突然「結婚する」と報告して、「はいそうですか。おめでとう」などと祝福の言葉を述べるわけがない。「勝手にしろ」と電話を切られた。今日、両親は来ない。東京へ出る時、俺は北海道を捨てたのだ。覚悟を持って東京に来たのだ。竹原は思った。

美瑛の花火大会で出会った時から、弓とは携帯電話で繋がっていた。
だからあの時、漣は園田葵ともう一度会うことができたのだ。

園田葵も携帯電話を持っていなかった。葵が夜逃げ同然で突然消えてから、三カ月後ぐらいだったはずだ。消息を、弓が、親しい先生から聞き出してくれた。
「札幌だ。住所もわかった」
すぐさま漣に電話した。家の固定電話だった。最初に漣の母親が出た。葵の現在の居場所を聞くと、漣はすぐに電話を切った。竹原は、引き出しにしまっておいた一万円札を数枚鷲摑み、ポケットにねじ込んだ。自転車を走らせ、上富良野駅へ行くと、漣が時刻表を見上げていた。走って来たのだろう。肩で息をしていた。
「金、あんのかよ、おまえ」
漣がなにも考えずここまで走って来たのは明らかだった。
「ギター買うために貯めといた金だ」
あの頃は本当にミュージシャンを目指していた。お年玉を貯めた三万円だった。
「まだ買ってなかったのかよ」憎まれ口を叩く漣のポケットに札をねじ込んだ。
「これでミュージシャンになれなかったらおまえのせいだかんな」
竹原は漣を送り出した。雪虫が飛んでいた。

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そのあと、なにがあったのか、詳しくは竹原にはわからない。
どこかで警察官に捕まったらしい。札幌に行った漣は、葵を連れだしたのだろう。中学生の二人がどこへ向かっていたのかも知らない。女の子と逃亡し、警察に捕まった漣の噂は学校中に広がっていた。

以来、漣は変わった。自転車でどこまでも走り続けていた無邪気な少年時代が終わりを告げたかのようだった。表面上は、あんなことはなんでもないことだったんだという感じを装っていた。

漣はいつだってそうなのだ。なんでも自分の心の中で解決しようとする。自分の問題は自分にしかわからないとでも思っているのだろう。垣根を設ける。漣があの時の金を返しに来たので、竹原は拒否した。三万円は中学生の自分にとって大金だったが、「おまえにやったんだ」と、かたくなに受け取らなかった。

漣とは高校が違った。竹原は旭川の工業高校で、漣は、富良野の道立高校だった。好きだったサッカーもやめてしまったらしい。時折、駅で会うと、漣はすでに大人になっていた。どうせなにをやっても駄目なのだという諦念さえ感じられた。竹原にとっても同じことで、高校時代は挫折の連続だった。あの時漣にギターを買う金を渡さなくても、ミュージシャンにはなれないことは、軽音楽部で先輩のギターを聞いた瞬間にわかった。

でも弓とは繋がっていた。

最初にキスをしたのは十四歳の時だった。高校に入ると、弓は年下の、やたら痩せて背の高い男と付き合いだした。たしか小柳という男だ。弓は「翔くん」と呼んでいた。竹原が血相を変えて問いただすと、「私たち付き合ってたっけ?」と答えた。「翔くんは私がいないと駄目なんだよね」と遠くを見つめた。もう弓のことなんか知らねえ。竹原は、コンビニでバイトをしていた別の学校の女性と付き合った。でもいつも思い出すのは弓のことだけだった。美瑛の花火大会の時、浴衣を着ていた弓のことばかり頭に浮かんでしまう。小柳という男とも結局別れたことを知った。「翔くんは私じゃ駄目なんだよね」と弓は、大人のようなため息をついた。俺はおまえじゃないと駄目なんだ。竹原は切々と訴えた。俺たちは別れてはいけない。せめて俺たちだけは……。高校を卒業して美容師の専門学校に通っていた弓は、ある日突然竹原の前から姿を消した。携帯電話が繋がっていなければ、永遠に会えなかっただろう。電話に弓は出なかった。メールを何度も送ったが返信はなかった。あきらめかけた頃、弓からメールが来た。

『今、東京にいる』
弓のメールの文章はいつも素っ気なかった。

「俺、東京に行く」
高校を卒業して、父親の自動車整備工場の手伝いをしていた漣に宣言した。

竹原は旭川の建設会社に就職して半年しか経っていなかった。
「どうしても行かなくちゃいけないんだ」
弓に会いたかった。今、東京に行かなければ弓との糸は切れる。切実な想いだった。
「金、あんのかよ、おまえ」
漣が尋ねた。竹原はなんの計画も立てていなかった。
漣は机の引き出しをあけた。しわくちゃになった札を数枚摑み、竹原のポケットにねじ込んだ。聞かなくても、あの時の三万円であることがわかった。
「おまえがミュージシャンになれなかったのは、俺のせいじゃないからな」
漣の笑顔を久しぶりに見た気がした。そして竹原は上京した。

思えば、幼い頃からいつも漣の背中を追っていた。
最初に見たのは自転車で駆け抜けていく少年の漣だった。どこまでも走っていく漣を見て、竹原も両親に自転車をねだった。周囲で自転車に乗ってる子供はそう多くはいなかった。ようやく両親を口説き落とし、買ってもらった自転車で漣のあとを追った。いつも漣が先頭だった。必死にペダルを漕いでも追い付かなかった。あいつはいつかあの雲の向こうに行くのだろう。自分とは違う世界に走っていくのだ。羨望した。なのに漣は、途中で立ち止まり、八年間も、同じ場所で留まり続けている。想いを話そうともしない。俺にはなにもわからないと見くびっているのか? 竹原は鏡を睨んだ。おまえは休憩しているだけだろう。俺はあきらめないでここまで来たぞ。今度はおまえの番だ。

新郎控え室のドアが遠慮がちにあいた。
漣が顔を出した。
東京に出て来て以来、約二年振りの再会だった。

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高橋漣 平成二十一年 東京


「似合わねえな」
タキシードを着た竹原を見て、漣は思わず口に出してしまった。

新郎控え室は人が少なかった。竹原の両親の姿も見えなかった。無理もない。竹原は今日の結婚式を強行したのだ。
「おまえもな」竹原が笑みを見せた。

スーツにネクタイをするのは初めてだった。漣は成人式にも顔を出さなかった。しかも今、漣は全身に汗をかいている。羽田空港から代々木の結婚式場までのルートは頭に叩き込んでいたはずだった。リムジンバスにはなんとか乗れた。だが新宿駅で迷った。山手線のホームがわからなかったのだ。

東京は人が多いということは無論知っていたが、想像を遥かに超えていた。チーズ工房と自宅を往復するだけの自分と、この街を足早に行く人たちが、別の世界の住人に感じられた。彼らと自分はいつまで経っても交わらない別の人種。そんなことさえ思ってしまった。だからようやく辿り着いた結婚式場の新郎控え室に竹原がいた時、北海道の懐かしいにおいに包まれた気がして、漣は心底ほっとしていたのだ。

「早く行けよ」でも竹原は即座に漣の背中を押した。
俺のことなんてどうでもいいんだよ。早く会って来いよ。
無理矢理外に出された。新郎控え室のドアがぴしゃりと閉まった。
いつだって竹原はそうなのだ。勝手に他人の想いを推し量る。

披露宴会場に向かおうとして、立ち止まった。トイレに入った。鏡に自分を映した。ネクタイが曲がっていた。額にも汗をかいている。
なにが早く会って来いだ。本当に、いつだって竹原はそうだった。
葵が夜逃げ同然でいなくなった時も、漣が逃避行して捕まった時も、竹原は心情を見抜いているかのように、辛かっただろ、わかるよ、とばかりに肩を叩いた。
数年後には、いつまであのことにこだわってるんだよと説教された。十二歳の頃の逃避行で、心に傷を負い、世界になんの関心もなくなった二十歳の冴えない男、という漣の物語を、竹原は勝手にこしらえるのだ。

違うんだよ、竹原。漣は心の中でつぶやいた。いつまでもこだわっているわけではない。葵のことを常に考えていたわけでもない。現に、十八歳の頃、旭川のガソリンスタンドで一緒にバイトしていた七海と付き合った。七海は、高校中退で、いつも軽自動車にぬいぐるみを乗せていた。背が小さくて、明るく元気で、客に好かれていた。でも時折一人ぽつんと空を見上げている時があった。至極気になった。眼光鋭く威圧する七海の仲間たちと、漣は明白に違っていた。暴力的な態度で他人に接する人間を漣は極端に嫌悪していた。誰ともつるむことなく一人で日々を過ごしていた。

自分になど興味はないかもしれない。思い切って食事に誘うと、やはり七海は目を丸くしていた。誘った自分にも漣は驚いていた。世界がほんの少し輝いて見えた気がした。

初めての時、こんなものなのかと、正直漣は拍子抜けした。女性と付き合えば誰とでも十二歳の時のような気持ちになるわけではないということを知った。七海にとっても同じだったようで、眉がやたら細い男との付き合いに、疲弊していただけだった。ここは自分の生きる世界ではないようだ。ようやく悟った。車が好きなだけだったのだ。

チーズ工房に就職して社会人になった。世界の肌触りをたしかめ、一歩、一歩、慎重に、自分なりに、なんとか前向きに生きてきた。他の人とスピードが違うだけだ。

一度離した手は、二度と繋がらないのだから。
八年前だ。もう八年も経ったのだ。

トイレから出ると、手を洗ったのに、もう汗ばんでいた。

披露宴会場は小さかった。東京で建設会社に就職した竹原の上司や同僚たちだろう、同じ席に座っていた。漣は友人席だった。まだ誰もいなかった。北海道の友人は漣だけだろう。離れたところに、弓の仕事先の美容室の人らしき賑やかな男女が見えた。おそらく東京に住んでいる人たちだ。続々、ドレスアップした女性が入って来る。

漣は入り口を見た。何度も見た。八年も経っているのだ。わからないかもしれない。時の流れとはそういうことだ。入って来た瞬間に、その考えは打ち砕かれた。時の流れとはなんの関係もなく存在している人間がいることを漣は知った。

髪が長くなっていた。決して派手に着飾っているわけではないのに、華やかさを感じた。自分の席を探す、少し不安な表情の中に、漣は中学生の時の面影を見た。

それが二十歳になった園田葵の姿だった。

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