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#3 いまだに夫を「主人」と呼んでいる女性…「つれあい」と呼んでみては?

家族はつねに仲よく、助け合い、わかり合うべきだ……。そんな世の中の常識にメスを入れるのは、ベストセラーとして記憶に新しい、下重暁子さんの『家族という病』だ。「家族」は本当にすばらしいものなのか? なぜ「家族」は美化されるのか? 結婚から、出産、介護、相続、お墓、孤独死まで、読めば読むほど「家族という病」から自由になれる本書より、一部を抜粋してお届けします。

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「つれあい」なら主従がない

父、母、子供、それぞれが親としての役割、子としての役割で、家族が守られている。役割を守っている限り、安泰なのだ。

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かつてはとと座、かか座などといって、いろりのまわりの座る場所も決まっていた。食卓でも父、母、子供の座る場所は決められていた。役割が固定化して家族の概念は出来上がり、そこから外れることは健全な家族と思われない。戦後は日本でも家より、個が優先するようになり、家族間の関係は少しずつ変わってきた。

夫婦と子供という形でなくとも、夫婦だけ、父と子、母と子というふうな家庭が増えてきた。父、母、子供がそろっていることが家族の理想型ではない。どんな組み換えも可能である。人間性を大事にして役割や型に自分をはめようとせず、自由な家族構成が大事だ。

私の今の家族は一人だけだが、私は外に向かって必ずつれあいという言葉を使う

つれあいとはなかなかいい日本語でどちらが主でも従でもない。つれ合って暮らしているという実態をよくあらわしていて、気に入っている。

俳句の友達に中山千夏さんがいるが、彼女は結婚していた頃、相手のことをつれあいと呼んでいた。

それを聞いて、ふさわしい言葉だと気づいた。以来、文字にするにも話をするにも、必ずつれあいと言っている

もっと家族は自由でいい

時々直されることがある。ある女性雑誌でインタビューされた。

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私はつれあいと言っているのに、主人という言葉に変えられていたのだ。私は意識してつれあいと言っている。生き方、暮らし方の実態に一番ふさわしいのがつれあいという言葉だからだ。わざわざそれを「主人」と変えた編集者は、私が間違ったと思ったのだろうか。

彼女の中では「主人」が正しいのだ。ということは、字のごとく家族の中の主たる人ということになる。そういう価値観の人もいるし、一般的にはまかり通っている。

けれど家族の数だけ、呼び方も考え方も違う。自分の価値観を押しつけてはならない

私はゲラの段階で「主人」を「つれあい」と直したが、その編集者は腑に落ちぬ表情だった。

パートナーという呼び方も多くなってきた。パートナー、日本語に訳せば、つれあいである。

パートナーは結婚した相手でなくともいい。暮らしを共にしている人、特別の間柄の人、異性とは限らない。同性同士でもいい。お互い一番信頼出来る人ならばいい。すでに同性婚が認められている国もあるし、ごく最近、東京の渋谷区では同性のパートナーを認める方向にある。

籍などという枠にとらわれず、「パートナー」という言い方は自由でいい

私はもともと籍など入れるつもりはなかった。だが実際暮らしていく上で、日本では様々な制約がある。夫婦別姓は当然だと思えるのに、その都度使い分けなければならぬ不便さ。ようやく最高裁判所で憲法判断が下されようとしている。

パートナーでいられれば十分だ。欧米では当たり前のことになっていて、戸籍上の妻の他にパートナーがいる例がいくらでもある

私が声楽を習っていたオペラ歌手の日本人女性は、六十歳になってドイツ人の七十歳になるパートナーを見つけた。彼は学者として世界的に有名な人でパーティや学会に出る時はパートナー同伴である。彼女は戸籍上の妻ではない。

フランス歴代の大統領、ミッテランも先代のサルコジも今のオランドも、みなパートナーがいる。公の場でも堂々としていて気持ちがいい。

家族という閉ざされた関係ではなく、外に向かって開かれた家族でありたい