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せめて『資本論』を読んでから死にたい! 歴史的大著と格闘した日々

市場原理主義が世界を覆い、経済的格差が拡がりつづけている今、再注目を浴びているカール・マルクスの『資本論』。しかし名前は知っていても、実際に読破した人はおそらく少ないでしょう。劇作家、宮沢章夫さんの『『資本論』も読む』は、この歴史的大著と格闘する日々をつづった異色のエッセイ。その冒頭を特別にご紹介します。

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なぜ『資本論』を読むのか?

人間、誰だって少なからず野望はあり、野望の果てに、「大金持ちになる」だの「ノーベル賞をもらう」だのと、なんらかの目的となる場所があるはずだ。

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いま、『資本論』を読むことはあきらかに野望である。

だが、困ったことに、『資本論』を読むことでどこに約束の土地を求めていいかよくわからない時代だ。その果てになにがあるか。ないのかもしれない。だが、だからこその野望ではないか。これこそが「純粋野望」と呼ぶべきものであり、こんなに美しい読書があるだろうか。

ちょっと知的さを装いたいならほかに読むべきものは無数にあり、ドゥルーズやフーコーといった現代思想家たちの名前がぱっと浮かぶが、迷わず私はマルクスを読む

そのことになにか理由があるのかと問われても困る。「理由を探すために読む」と書けば、なにやら気のきいた言い回しをする気持ち悪さを感じるが、それには私の、「『資本論』が読みたかった」という、「死ぬ前に一度でいいから富士山に登りたかった」とか、「せめて草津の湯につかってから死にたい」といった種類の、長年の夢にかかわる話があることを知ってもらわなくてはいけない。

高校生のころだ。

誰かが言いだして、ちょっとした『資本論』ブームがクラスに起こったのだった。「俺は読むぜ」「俺も読むさ」などと顔を合わせればそう確認し、「商品の項はもう読み終わった」とか、「まだ第一巻の半分だ」と報告しあった。だが、ブームの熱が冷めてくると読書の速度も落ち、いつのまにか報告する者もいなくなった。

こんな時代だからこそ読む

それでもまだ読んでいるらしいことはわかったが、そうしているうちに卒業、それぞれ進む方向がちがったので、連絡も途絶えることになる。卒業してしばらくしてから当時の友人たちと再会する機会があった。よくある思い出話をしているとき、ある一人の友人が言った。

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「『資本論』、とうとう読み終えたよ」

そのこと、つまり読了したことに驚くというより、いまだそれを続けていたことに驚かされた。もうすでに卒業から十年が過ぎたころの話である。こいつ、十年間、ずっと読んでいたのか。

「約束は覚えてるか?」茫然としている私と、そこにいた数人の者に向かって、読み終えた友人は言ったのだった。

「カレー、おごれよ」

そんなことを覚えている友人も友人だが、この劇的な状況のなか、約束があまりに他愛のないことに私はなおさら驚いた。

「カレーをおごる」

子どもの約束である。高校生なんてその程度のものだ。

だから、『資本論』を読もう

べつにカレーが食べたいわけではない。カレーなんていまなら自分の力でいくらだって食べることができる。では、それは単なる感傷なのだろうか。こんな時代に読もうなんてロマンチシズム以外のなにものでもないではないか。そうではなく、こんな時代だからこそ読むのである。

さて、大月書店版の『資本論』はほかの多くの版がそうであるように、いくつもの「序文」からはじまる。

「第一版序文」「第二版後記」「フランス語版序文および後記」(以上マルクス)「第三版へ」「英語版序文」「第四版へ」(以上エンゲルス)と、そこまで読んでようやく本文に入るが、なぜこれほどまでに、「序文」を書かずにいられなかったかというマルクスの謎を解くことから、「資本論を読む」ははじめなくてはいけないだろう。

そもそも、「序文」とはいったいなんだ。読む必要はほんとうにあるのだろうか。


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