この先には、何がある? 3┃群ようこ
独立
思いがけず私は物書きになってしまった。
会社をやめる一年ほど前からは、昼間は会社、夜は原稿書き、取材がある仕事も受けていたので、土、日は取材と、休みはほとんどなく、睡眠時間は毎日三時間だった。
それから解放された私は、こんこんと寝続けた。思いっきり寝られるのって、何て素晴らしいのだろうと感激していた。
会社をやめて独立したとき、連載の仕事ばかりだったのはありがたかった。
まだ男女雇用機会均等法施行前で、女性の編集者はいたけれども人数はとても少なく、私の担当をしてくれた編集者は年上の男性ばかりだった。もしも次につながるかどうかわからない、単発の仕事だけだったら、不安になったかもしれないが、収入の保証があるのとないのとでは、気分が違った。
連載は一年先も決まっていたし、書き下ろしの本が出る予定もあったので、この先、三年程度の収入は保証されていた。当時は吉祥寺駅から徒歩五分の1DKの賃貸マンションに住んでいて、家賃は六万三千円だった。
会社をやめるときには、お給料は手取り十三万円だったが、ボーナスは一桁違う額をいただいていたし、原稿料はお給料の三倍あったので、その家賃でも生活できていた。
しかし私は物書きになった自分を信用していなかった。たまたま勤めた会社が、出版に関する雑誌を出していて、業界の人がそれに載っている原稿を読んで、お仕事をくださった。
自発的に意思を持って、出版社に原稿を持ち込んだとか、賞に応募したわけでもなく、ずるずるっと物書きになってしまった。デビューしたては物珍しいから、原稿を依頼してくるけれど、きっとそれも、いいとこ三年くらいで終わるだろう。
そうなったら、家賃の安いアパートに引っ越して、アルバイトで生計を立てて、本を読む生活をすればいいと思っていた。物書きになろうとは考えていなかったので執着はなかった。いただいた仕事をこなしつつ、
「こんなことは長いこと、続かないぞ」
と戒めていた。
本の雑誌社では目黒考二さんにも椎名誠さんにも、本当によくしていただいた。
だからこそ、会社をやめてからは接点を持つのはやめようと考えていた。いくら円満退社とはいえ、私が会社に迷惑をかけたのは間違いないのだから、やめた後も、のこのこと遊びに行くなんて気が引けたし、いつまでも「本の雑誌」にいたことをひきずるのも、よくない気がしていた。
あれは過去なのである。やめてから三か月間は、後任となった女性の仕事がうまく進んでいるかどうか、確認しには行っていたが、それが終わったと同時に、私は本の雑誌社には一切、足を踏み入れなかった。
文藝春秋から出ていた「Emma」の、市販はされないパイロット版で、暴力団の事務所の取材をしないかと、花田紀凱編集長から聞かれたときは二つ返事で引き受けた。
当時関西では、敵対する組同士の抗争があり、籠城している組の内部に入って、彼らに話を聞くという企画だった。
ふつうの生活をしていたら、絶対に会えない人たちに会えるという興味と、怒らせちゃったらどうしようという不安がいりまじったが、彼らに会って話を聞きたい気持ちのほうが勝ったのだ。
私は行きの新幹線の中で、もしも機嫌を損ねて、先方を怒らせたらどうしたらいいかを漠然と考えていた。何か起こったときも、まず私からやられるはずはないので、同行するスタッフがやられているうちに、考えればいいかと結論を出した。
カメラマンとは目的地の駅で合流した。現地でずっと抗争について取材を続け、この取材に関して間に入ってくださった記者の男性から、
「組側が客人が来ると喜んで、すき焼きを準備して待ってくれているそうです」
と聞いた。
一瞬、驚いたが、そうか、彼らと一緒に晩御飯を食べるのかと納得した。
私ののんきさとは別に、現地は緊張していて、記者の方からは組の名前に関することは、喫茶店などでは話さないようにと注意を受けた。どこで誰が話を聞いていて、誰の口から話が漏れるかわからないという。
表面上は騒ぎも起きておらず穏やかな生活を送っているようなのに、実際は行動に神経を使わなくてはならないような、状況になっていたのだった。
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