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糸 1┃林 民夫

プロローグ 平成十三年


高橋漣が、園田葵に初めて会ったのは、美瑛の花火大会だった。
その年の冬の夜、漣は、葵の手を握っていた。
絶対に離したくなかった。いっそう強く握り締めた。
ロッジは、玄関はもとより、すべての窓にも、内側から鍵がかけられていた。
濃密な闇が辺りを包んでいた。降りしきる雪も闇の中に吸い込まれていった。

ゆき

葵の手は冷たかった。
雪のせいだけではない。今にも消えてしまいそうだった。最初に会った時からそうだったのかもしれない。なぜ、気づくことができなかったのだろう。葵を背後に回らせた。雪で濡れた石を摑み、ガラスに叩きつけた。一部が炸裂するようにひび割れた。
破片が落ちると、慎重に指を差し込み、内側の鍵をあけた。
全開した窓は小さかった。

「玄関に回って」
漣は笑顔を作った。不安を悟られたくなかった。
「大丈夫。ここは何度も来てるから」

微塵も理由になっていなかった。
身をよじらせて、転がるように、ロッジに侵入した。
これで今日一日は生き延びることができる。

長い間閉め切られていた室内は空気が淀んでいた。だが木のぬくもりも感じられる。振り返ると葵はいなかった。ただ雪がしんしんと降り続いているだけだった。冷たい手の感触だけが残っていた。暗闇の中、玄関に走った。コートに付着していた雪が床に落ちた。鍵をあけ、ドアをひらくと、果たして、葵はそこに立っていた。走って玄関まで回って来たらしく、肩で息をしていた。表情は読み取れなかった。
左目の眼帯が表情を隠していたのだ。
漣は葵の手を再び強く握った。
大丈夫。漣は心の中でつぶやいた。葵はたしかに存在している。

電気は点かなかった。
冬季は管理人が常駐していないのだ。
ストーブの前に、ナラの薪とマッチが置かれていて助かった。嬉しいことに着火剤まであった。誰かが使わずにそのままになっていたものだろう。宿泊客に自分で薪ストーブを使ってもらう、というのがこのロッジのサービスだ。と、以前、漣は聞いたことがあった。幼少の頃、漣は、毎年夏になると、家族と一緒にこのキャンプ場のロッジに訪れていた。

今、考えられる宿泊場所はここしかなかった。
もう後戻りはできないのだから。

火はすぐに付いた。北海道で生まれ育った漣は、薪ストーブなら何度も付けたことがあった。その火が辺りを灯した。部屋がほんのり暖かくなっても、葵はじっと火を見つめているだけだった。この小さな体で、葵は懸命に毎日をやり過ごしてきたのだ。最初に会った時からそうだったのだ。葵はそこにいるのに、いなかった。自分の存在を消そうとしていたのだろう。葵はそうやって生きてきたのだ。まだ十二歳の壊れそうな小さな体で。

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俺が葵ちゃんを守る。

言葉は口に出せなかった。
そもそもこれからどうしていいのかもわからない。
漣もまだ十二歳だった。中学一年生だった。

普段だったら、テレビやゲームをしながら、だらだらと過ごしている時間だった。昨日までのそんな無為な時が、漣は懐かしくさえ感じられた。今、手元にあるのは、ビニール袋の中に入っているカップラーメンとスナック菓子だけだった。葵が札幌の百円ショップで購入したものだ。葵の今日の晩ご飯だったのかもしれない。

薪のはぜる音以外は、異様なほど静かだった。
世界に二人だけが取り残されているような気がした。
照明器具のついた防災用のラジオがあった。世界に繋がりたかった。

ニューヨークの貿易センタービルに航空機が突入しました。
スイッチを入れると、ラジオから声が聞こえた。
二カ月前に起こった同時多発テロの話題だった。これから世界はどうなってしまうのでしょう。ラジオのパーソナリティが嘆いていた。なんて時代だ。テロのニュースを見て、父親がぽつんとつぶやいていた時のことを漣は思い出した。これから世界がどうなろうと、たとえ酷い時代なのだろうと、今、漣が考えなければいけないのは二人のこれからのことだけだった。遠い世界のことなどどうでもいい。葵をこれ以上不安にさせてはいけない。

ストーブの前に座っている葵の横に腰を下ろした。初めて会ったあの夜と同じにおいがした。初めてなのに、なぜか懐かしくなるような、心地よい微かなにおいだった。
俺が葵ちゃんを守る。今こそ、言いたかった。

「青森にリンゴ農園をしているおじさんがいるんだ」

俺はなにを言い出しているんだ? 漣は自分に困惑した。言葉は止まらなかった。
「あのおじさんならなんとかしてくれる」
あのおじさんなんかいない。今、頭の中で作った架空の人物だ。
「函館まで行って、フェリーで青森まで行く」
函館も青森も一度も行ったことがない。
「二人でリンゴ農園で働こう」
まるで昭和の物語だ。俺はなんでこんなことしか言えないんだ? 漣は髪をかきむしった。俺が絶対に葵ちゃんを守る。なぜ言えない。漣は意を決した。でも口から出たのは、「寒いよね」という言葉だけだった。

葵は静かに微笑んだ。あきれているのかもしれない。
「大切な人の結婚式のために作られた曲です」ラジオからイントロが流れた。
音の方向に目をやると、葵と目が合った。
眼帯をしていない右目が漣を真っすぐに見つめていた。
肩がわずかに触れあった。

ストーブの薪がはぜた。窓の外は雪が降っていた。
唇がかわいていた。葵の唇ではない。自分の唇だった。漣は吸い込まれるように、自分のかわいた唇を、葵の唇に触れさせていた。思わず抱きしめた。葵が消えてしまわないように。少しでも暖かくなるように。漣は願った。流れる唄の歌詞がこう言っていた。
なぜめぐり逢うのかを私たちはなにも知らない。

昨夜積もった雪が木から落ちた音がした。
漣はそっとドアをあけた。
眩しかった。今日は快晴だった。

葵は疲れていたのだろう。当然だ。あのあとすぐに眠ってしまった。漣は葵に毛布をかけた。葵の小さな寝息を聞いているうちに、漣もいつのまにか瞼を閉じていた。

周囲を見る。ひっそりとしていた。大丈夫。誰もいない。漣は、葵の手を握った。
気合を入れるように踏み出した。葵は動かなかった。
振り向くと、葵は笑顔だった。精一杯の笑顔を作っていた。
「ありがとう。もういいよ、漣くん」
もういいわけがない。
「帰ろう」
どこに? あの場所に?
そんなことはさせるわけにはいかない。漣は葵の手をさらに強く握った。
離さない。絶対にこの手を離さない。漣は心の中で誓った。

「運命の糸だよ」と言ったのは、友人の竹原直樹だった。美瑛の花火大会の時、竹原は、葵と一緒にいた後藤弓に一目惚れしたのだ。なにが運命の糸だ。中学生だろう。漣は鼻で笑った。しかもその時、まだ竹原は弓に一度しか会っていなかった。
でも今、漣は葵の手を握りながら、心からそう思う。
この糸は絶対にいつまでも繋がっている。
誰も引き離せない。

雪を踏む足音が先に聞こえた。
ロッジの陰から出てきたのは二人の男だった。一人は制服を着た警察官だった。もう一人はスーツを着ていた。知らない男だった。二人ともおだやかな顔をしていた。緊張感というものがまるで感じられない。さあ、遊びはここでおしまいだよ。子供は家に帰りなさい。心の声が聞こえてくるような気がした。あるいは逃避行した中学生二人を興奮させない所作なのかもしれない。捕まえようと走ってきたら、またたくまに逃げ出していただろう。なにごともなかったように近づいてくるので、逆に漣の足は止まってしまった。

「葵!」

女性の声が聞こえた。警察官とスーツを着た男をかきわけ、髪を振り乱してやってくる。漣はその人に会ったことは一度もなかった。でも葵の表情ですぐに、葵の母親であろうことがわかった。ずいぶん若く見えた。近くに来ると、嗅いだことのない香水のにおいがした。葵の母親は、漣の存在など目に入っていないかのように、葵の腕にしがみついた。

なぜここがわかったのだろう。ここは漣しか知らない場所だ。自分の両親が来るならわかる。なぜ葵の母親はここがわかったんだ?

「それ、転んだことにしなさいよ」
眼帯を見て、母親が葵の耳元でささやいたのが、漣にも微かに聞こえた。瞬間、葵は母親の体を振り払った。雪道を、転びそうになりながら、一人で駆け出した。いや、一人ではない。漣もすでに走っていた。もうあんな場所には戻らない。冷たすぎる手から、葵の心の叫びが伝わってくるようだった。眼帯の隙間から痣が見えた。握った手にありったけの力を込めた。走った。闇雲に走った。背後から強い力で肩を摑まれた。先程までおだやかな顔をした警察官とスーツを着た男だった。たちまち追い付かれていた。

二人の手が、離れた。

漣は藻搔いた。だが二人に背後から摑まれている。大人の力には到底かなわない。
葵の母親も葵を背後から押さえた。
「漣くん!」葵が叫んだ。白い息が見えた。
「葵ちゃん!」
「漣くん! 漣くん!」
葵の母親は、葵を引きずるように、漣との距離を離していく。遠くに車が停めてあった。葵の母親のものだろう。まるで葵を連行するように引っ張っている。
二人の男は、「まあ、落ち着け」「話、聞くから」と口調はやわらかいが、押さえる手は間違ってもゆるめない。
「葵ちゃん! 葵ちゃん!」
叫んだ。こんな大きな声は今まで出したことがなかった。二人の男を振り払おうとして暴れた。雪の上に押さえつけられた。容赦ない激しい力だった。今までは本気ではなかったのだろう。胸が地面の雪に圧迫されて、もはや葵の名を再び呼ぶこともできなかった。
葵が、漣の視界から消えた。
その視界が滲んでいて、漣は、自分が泣いていることに気づいた。
胸に染み込む雪が冷たかった。
そうして漣と葵の糸は切り離された。
それが平成十三年の冬の出来事だった。

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