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「なんだこれは」とマルクスは驚いた…なぜ『資本論』は難解なのか?

市場原理主義が世界を覆い、経済的格差が拡がりつづけている今、再注目を浴びているカール・マルクスの『資本論』。しかし名前は知っていても、実際に読破した人はおそらく少ないでしょう。劇作家、宮沢章夫さんの『『資本論』も読む』は、この歴史的大著と格闘する日々をつづった異色のエッセイ。その冒頭を特別にご紹介します。

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「序文」で伝えたかったこと

そもそも「序文」とはなにか。それを知ってはじめて読みはじめなくては、序文なんてしちめんどくさい読書になり、また逆に、べつに読む必要もないだろうと読み飛ばす危険もあるし、「序文」を読むことで「わかった気になる」のはさらにまずい。

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「書物のはじめに述作の趣旨や成立の由来などを記した文章」(『広辞苑第五版』)

マルクスは書かずにいられなかった。つまり、「述作の趣旨」だ。だから「第一版序文」の冒頭近くにはこうあるだろう。

「なにごとも初めが困難だということは、どの科学の場合にも言えることである。それゆえ、第一章、ことに商品の分析を含む節の理解は、最大の困難となるであろう」

これこそ、「商品の分析を含む節」、つまり、「第一部 資本の生産過程」、その「第一篇 商品と貨幣 第一章 商品」の分析における難解さにマルクス自身が危惧を抱いている証ではないか。べつにマルクスは難解な論理の組立によって衒学的になにか表現しようとしていたわけではけっしてない。

そうとしか書けなかった。結果的にそうなった

商品を精緻に分析することにおいてそうとしか書くことができず、気がついたらそうなっていたので、書き上げたものを見て思わずこんなことを口にしていたのではないか。

「なんだこれは」

なにか為そうとして書かれたものなどそれほどたいしたことはなく、熟考し、それを文章化する行為の結果、こうなったし、こういう叙述でしか「商品」を描けなかった。『資本論』を世に問うにあたってマルクスが抱いた危惧は、引用した、「なにごとも……」以下の言葉を序文に書かずにいられなかったのだ。

「資本論を読む旅」の手掛かり

では、序文は容易く読めるのか。たしかにさほど困難は感じられないが、いきなりこんなふうに書かれても人は困るのではないか。

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「イギリスの工業労働者や農業労働者の状態を見てドイツの読者がパリサイ人のように顔をしかめたり」

いったい、その「パリサイ人」とはどこのどいつだ。マタイ伝の一節に次のような記述がある。

「さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた」

これを読んで、イエスが食卓に着いたときパリサイ人のやつが顔をしかめなければいいと私は思った。

だがそんなことはどうでもいい。

パリサイ人のことなど知るものかと勇気を持って読み飛ばし「序文」でマルクスが書いておかなければならなかったこと、「述作の趣旨」を読みとることが、これから長く続くだろう「資本論を読む旅」の手掛かりになる。

ところで、マルクスは一八八三年三月一四日に死に、「第三版へ」と題された序文はエンゲルスによって書かれ、以後、「英語版序文」「第四版へ」まで続き『資本論』成立史を読むかのように興味深いが、なかでも、「マルクス引用偽造事件」とでもいうべき箇所は、サスペンスを読むような熱気をはらんでいる。

それは次のような叙述ではじまり、「ここで私はどうしても一つの古いできごとに話をもどさなければならない」とエンゲルスが書くとき、これはなにやら文学だ。マルクスが引用を偽造したとある雑誌に匿名の論文が掲載された。タイトルがすごい。

「カール・マルクスはどのように引用するか」

これは面白い。面白いがそんなことはどうでもいい。重要なのは、マルクスは序文でなにを言わずにいられなかったかだ。


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