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ぼくはあの人の「生徒」だった…謎めいた未亡人と青年のラブ・ロマンス #2 レッスン

駆け出しモータージャーナリストの「ぼく」は、ふとしたきっかけで出会った謎めいた未亡人に惹かれ、誘われるままイタリアへ。クルマ、ゴルフ、ファッション、レストラン、セックス、マナー、そして人生と、死について。あの人はぼくの、最高の教師だった……。自由で大人な女と男が、30年近く経たいま鮮やかに立ち上がる。五木寛之さんのラブ・ロマンス小説『レッスン』冒頭より一部をご紹介します。

*  *  *

あのひとが運転していたのは古いフェラーリ・ディノだったと聞いている。ぼくは本当はディノで走りたかったのだが、あいにくとレンタルできたのは安っぽいアルファ・ロメオのスパイダーだった。

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ぼくは明日、東京からもってきたカセットテープをスパイダーのグローブ・ボックスにいれてトスカーナ地方の村の道を走る。そのテープには、ジェシー・ノーマンのニグロ・スピリチュアルズが四曲はいっている。あのひとが好きだった『Oh! What a beautiful city』のほかに『Gospel Train』と、『My Lord, what a morning』、それに『He's got the whole world in his hands』の四曲だ。

ぼくはあのひとが正面衝突をしたというブラインド・コーナー、山裾を左へ巻く例のカーブで車をとめるだろう。そこで車からおりて道路を横切り、黄色い花が海のようにひろがる丘の斜面に立つだろう。だれも人がいなければ、谷にむかって立ち小便をするかもしれない。それから生い茂る草のなかにカセットテープを放りこんで帰ってくるだろう。

去年はチャーターした運転手つきのメルセデスでそこへいった。それは図体だけ大きくてクーラーもついていない124タイプのおんぼろリムジンだった。ドライバーは太ったアル中の中年男で、大声でヴェルディの『ナブッコ』の合唱曲をくり返し歌ってはぼくを閉口させた。

あのときもっていたのは、ネパール産のアンモナイトだった。横浜のガラクタの店で買ったおむすび大の黒い化石だ。店の若いオーナーがカトマンズ郊外のパシュパティナートという町で仕入れてきた品だという。古代の貝の殻のかたちがそのまま彫刻みたいにきざまれているアンモナイトは、あのひとの好きなもののひとつだった。

去年はあの石をなにげなく道端に転がして帰ってきた。ひょっとして考古学に興味のある学生なんかがそれを見つけたら、すごいショックを受けるんじゃないかと思う。四億年も昔のヒマラヤ山系にいた生物の痕跡が、フィレンツェの郊外で出土するというのは、ちょっとしたニュースだろう。

「それじゃ、おやすみなさい」

と、マダム・アキノが立ちあがりながら言った。ぼくも席を立った。

「運転、だいじょうぶかな? かなり飲んだようだけど」

「この国じゃ、酔っぱらい運転は罪じゃないのよ。事故さえおこさなきゃね」

彼女は先に立ってテラスを横切り、フロントのほうへ出ていった。ぼくは彼女を見送るために、そのあとにつづいた。

派手なタイの五十年輩のイタリア人の男が、すれちがうときに道をあけて彼女の顔をのぞきこんだ。その男はかなり酔っているらしかった。

「あんた、とても素敵だよ」

「ありがとう。おたくもね」

マダム・アキノは軽快にその男の横をすりぬけて外へでた。

「明日は気をつけていってらっしゃい。帰ってきて淋しかったら電話していいわ」

「わかった」

「今夜はごちそうさま。ひさしぶりで日本人の男と食事したわ」

彼女はカブリオレに乗りこむと、エンジンをかけた。

「さっきの話のつづきだけど――」

と、彼女はエンジン音に負けないように大きな声で言った。

「なんだい」

「あなたが伽耶の何であったかっていう話」

「そんなこと、どうだっていいんだよ」

「よくないわ。あなた、本当のことを知るのがこわいんでしょう?」

「こわくなんかないさ」

「じゃあ、教えてあげる。こっちに耳をかして」

ぼくはサーブのドアに手をかけて、上体を運転席の彼女のそばに傾けた。

「あなたはね――」

彼女は言った。楽しそうな口調だった。

「あのひとの恋人でもない。愛人でもない。それに男友達のひとりでもなかったわ。もちろん、浮気の相手でもなかったし」

「じゃあ、なんだったんだ?」

ぼくは彼女の目をみつめて言った。

「言ってみろよ。本当はぼくはあのひとのなんだったと思う?」

「生徒よ」

と、彼女は答えた。

「なんだって?」

「生徒。そして彼女は教師。伽耶はあなたにレッスンをしただけよ。とても熱心にね。あなたは彼女の忠実な生徒だったの。それだけのことよ」

彼女はギアをローにシフトすると、いきなり車を発進させた。ぼくはそのはずみに倒れそうになったが、どうにか姿勢をたてなおした。赤い尾燈が猛烈なスピードで夜のなかに遠ざかっていった。

生徒、だって?

そうかもしれない、と、ぼくは苦い気持ちで思った。

ぼくはあのひとから沢山のレッスンを受けた。それは本当だ。しかし、そのレッスンの日々が、ぼくのかけがえのない人生だったのだ。それはただのレッスンではなかった。現在のぼくをつくりあげたのは、そのレッスンの日々だったといっていいだろう。

ぼくは夜の濃密な空気のなかで、大きく深呼吸をした。そして黒い影をおとしているオリーヴの樹の下をぬけて、佐伯伽耶に関するさまざまな回想にふけりながらゆっくりと歩いていった。どうやら今夜も眠れない夜になりそうな気配だった。

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ぼくがはじめて佐伯伽耶に会ったのは、あれはいつのことだっただろう。

あふれるような桜の花が記憶にのこっているところからすると、たぶん春のおわりの頃ではなかったか、と思う。

薄気味わるいほど見事な桜の花のむらがりが曇り空の下にあった。風もないのにあとからあとから桜の花弁が散りつづけていた。たぶん四月上旬の、火曜日のことにちがいない。

いまから八年前、ぼくは二十六歳のときにあのひとと出会ったことになる。

その日、ぼくは先輩の田代亮に誘われてゴルフのコンペに参加することになっていた。

コンペといっても、企業や団体が主催するような大がかりな会ではない。雑誌社の編集主幹をつとめる田代亮の、プライベート半分仕事半分といった小さな集りである。

ぼくは大学の先輩である田代に、仕事の面でいろいろ世話になっていた。彼が若くして創刊した自動車専門誌に、車に関するコラムをずっと連載で書かせてもらっていたのだ。

大学を卒業したあと、ぼくはしばらく欧州車の日本総代理店につとめていた。子供のころから好きだった外国車を扱う仕事につくことができて、最初のころは大いに張りきっていたものである。

だが、一年もたつとビジネスの裏側が見えてきて、すこし元気がなくなってきた。二年をすぎた頃には、同族会社である社内の陰湿な派閥争いに巻きこまれて、思い返すのも不愉快な経験をいろいろした。

ニューカーの発表披露会の席上で、先輩の田代亮に偶然に再会したのは、ちょうどそんな辛い時期のことだったと思う。

彼は編集長の肩書きのある名刺をぼくにくれた。その雑誌はぼくがかねてからひそかに注目していた自動車専門誌だった。

その当時はやっていたポストモダンの若手論客の西條成人や、詩人の三宅令二、芥川賞を受賞したばかりの早見恭介などに自由なエッセイを書かせたり、フランスの構造主義哲学者にインタヴューをしたりという、いわばみえみえのスノビズムを逆手にとって若い世代の興味をひこうという手の内は読めていたが、それでも活気のある雑誌にはちがいなかった。

「なんだか浮かない顔つきじゃないか。仕事がおもしろくないのか」

と、彼はぼくの肩をたたいて言った。

「必要があれば相談にのるぜ。ここへ電話をくれ」

ぼくより四歳年上の田代は、浅黒い顔をほころばせて笑った。ゴルフ焼けらしいその肌の黒さがぼくにはまぶしかった。まだ三十にも満たない年齢のはずなのに、ペンシル・ストライプの英国調の細身のスーツといい、いかにもイギリスふうのブローグド・ストレートチップの靴といい、妙に老成した貫禄がある。

ホテルでおこなわれた発表会には、編集者やカメラマン、モーター・ジャーナリスト、TVの連中など、いろんな客が集っていたが、ほとんどミラノっぽいカジュアルな格好だったので、どことなく大人びた田代の服装が妙に印象的だったのだ。

それから一カ月後に、ぼくは彼のオフィスに電話を入れた。その日のうちに田代はぼくと会ってくれた。そして彼の雑誌に短い単発のコラムを書くようにぼくにすすめた。

文章を書いて生活してゆくことは、ぼくの学生時代からの夢だった。それも自動車に関してのエッセイを書かせてもらえるとは。

ぼくは翌日すぐに、これまで発表するあてのないままに書きためておいた雑文をいくつか彼のところへ送った。

折返し連絡がきて、ぼくは麻布にある彼の雑誌社を訪ねた。田代は真っ赤になった原稿をぼくに投げて言った。

「ほとんど全文おれが書きなおしたよ。読んでみてくれ。お前さんに文句がなければ、それを連載のかたちでうちの雑誌にのせようと思うんだが」

ぼくは原形をとどめないほどに手のはいった自分の原稿を読んだ。それはほとんど田代自身の文章といってもよかっただろう。だが、彼はたしかにプロだった。ぼくの気取った形容詞や比喩は、ほとんど完膚なきまでに吹っとばされ、ごつごつした武骨な文体にかわっている。その結果、まるでみちがえるように新鮮で活気のあるエッセイに一変していたのだ。

「編集長になってからというものは、ずっと自分で記事を書く機会がなくてね。欲求不満がこうじていたんだよ。いくら先輩とはいえ、やりすぎたような気がしないでもない。かんべんしろよ」

彼はがっしりした犀のような首をまげて、ぼくにむかって謝るまねをした。

「もしお前さんにライターとしてやる気があるんなら、いまの勤めはやめたほうがいい。無署名の取材記事やインタヴューの構成など、仕事はいくらでもあるさ。いいか。“歌いながらパンを得よ”だ。アルバイトじゃなくて、文章で食っていく決心をしろ。そのかわり今後二年間、お前さんの文章はすべておれが勝手に直す。二年たってひとり歩きできないようだったら、外車のセールスマンでもやるんだな。どうかね」

彼は厚味のある顎をぐっと引くようにしてぼくをみつめた。ぼくはその迫力に気圧されるようにうなずいた。

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