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この先には、何がある? 1┃群ようこ

転職六回

毎日、原稿を書いていると、「何年、こんなことをやってきたんだろう」とふと思う。会社に勤めながら五年、独立して専業になってから三十二年、計三十七年間、書き続けてきた。あらためて考えると、生まれた子供が立派な大人になり、その子の子供ができてもおかしくないような年月である。

それまでずっと仕事があり続け、自発的に休んだ一年間は別にして、病気で休むこともなかったのは、ありがたかった。

しかしついこの間、就職をどうしようかと悩んでいた女子学生が、あっという間に今は還暦を過ぎた前期高齢者予備軍である。ものすごく時の流れが速くて、それにただただ驚くばかりなのだ。

もともと私はフリーランス希望ではなかった。二十歳のときに両親が離婚し、家を出ていった父が自由業だったため、収入の不安定さはよく知っていた。就職するのであれば、妥協せずに望んだ職種で会社に勤めようと考えていたものの、現実的には私は就職する気がなかった。

長髪でベルボトムのジーンズにロンドンブーツを履いていた学生たちが、急に髪の毛を切ってスーツを着て、就職活動をしているのが腹立たしかった。彼らに対してではなく、藝術学部という社会的に経済に直結しない分野にいる学生が、社会にまるめこまれて、負けた証しのような気がした。

学生のままでずっといられないのはわかっていたが、勤めるのであれば、自分の好きなことを我慢しないで済むような生活を続けたかった。

本は好きだったので、仕事をするのなら出版関係か、興味があった広告関係と考えていたけれど、就職しようにも、当時は大手の出版社には指定校制度があった。

会社が指定する大学の学生以外は就職試験を受けられず、私の通っていた大学は指定校に入っていなかった。合格する以前に、受験を拒否されていたのだ。

広告代理店も同じようなもので、特に当時は短大卒の女子学生が、会社にとってはいちばん好まれ、四大卒で偏差値が高くない大学の女子学生が、自力で就職できる可能性がある会社は、とても少なかった。

周囲の女子学生で就職が決まった人は、ほとんど親のコネだった。二年後に結婚する予定の人もいて、会社側も彼女たちの能力を買って採用を決めたわけではなく、ただ頼み事を断れないという事情で、入社させたにすぎない。

そういう世の中も嫌だった。地方出身の女子学生は、実家から通っていないために、もっと就職が厳しく、地元に戻って家事手伝いをする人も多かった。

就職の準備をしていなかった私は、正社員として就職できないと思っていたので、いちばんの理想は、最低限のお金と本代をアルバイトで稼いで、あとの時間はずっと本を読んでいる生活だった。自分のなかでは三十歳まではあちらこちらと横道に逸れても、それを過ぎたら自活できるようにしようと考えていた。正社員でもアルバイトでも、自活できればどちらでもよかった。

幸い、大学に入ってからずっとアルバイトをしていた書店から、社員にならないかと声をかけていただいたけれど、私はずっとアルバイト待遇でいたかった。給料の額や保証よりも、自分の時間をなるべくたくさん持ちたかったのだ。

そんな私を母と弟は許してくれなかった。私を「怠け者」と罵倒し、仕方なく私は毎日、新聞の求人欄を見て、新卒の四大女子学生を雇ってくれるところを、いやいや探していた。

そこで見つけたのが、代官山の広告代理店だった。もしかしたらここは、私の望んでいた会社かもしれないと気分は上がったが、スーツなどは持っていないので、普段着で面接試験を受けたら、どういうわけか合格してしまった。

しかしその会社には半年しかいなかった。あまりの激務に耐えられなかったのである。新入社員は社内の掃除があるために、朝八時半に会社に到着しなくてはならない。そのためには、七時に家を出る必要がある。そして家に帰るのは毎日夜の十二時を過ぎていた。学生ではほぼいちばん上の立場だったが、社会人ではいちばん下っ端になった私は、世の中の厳しさを知った。

長時間労働の問題だけではなく、自分たちが考えたアイディアを上司が横取りする、理由も説明されずに怒鳴られるなど、広告の仕事自体は嫌いではなかったが、精神的にも肉体的にも辛かった。寝ているときも働いている夢を見るので、寝た実感もない。子供の頃からのかかりつけ医のところに行ったら、ひとつだけといって、マイナートランキライザーを処方してくれた。それを服用したら、噓のように体調がよくなり、それに驚いた私は、こんなに効く薬を飲むようになったらだめだと、すぐに会社をやめた。

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