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特大スクープを入手するも…この小説を書くために、NHKを辞めました #3 ガラスの巨塔

巨大公共放送局で、三流部署ディレクターからトッププロデューサーにのし上がった男がいた。手がけた『チャレンジX』は、視聴率20%超の国民的番組となり、特別職に誰よりも早く抜擢される。しかし、天皇と呼ばれる会長が失権すると事態は一転し……。元NHKプロデューサー、今井彰さんの『ガラスの巨塔』は、組織に渦巻く野望と嫉妬を描ききった「問題小説」。その存在意義が問われている今こそ読みたい、本書の一部をご紹介します。

*  *  *

湾岸戦争が始まって一カ月半、戦争は最終局面を迎えた。

アメリカを中心とする多国籍軍の兵力は圧倒的だった。アメリカ海軍の巡航ミサイル・トマホークとB52戦闘爆撃機からの空爆によって、イラクの兵力は壊滅的な打撃を受けた。数日前から始まった地上戦もハイテク兵器に押され、イラク軍は敗走を続けていた。その一方でソ連の仲介による停戦への合意が秒読みの段階に入ったとの情報が乱れ飛んだ。

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全日本テレビの報道フロアー第一編集室に真行寺企画部長はじめ四人のプロデューサーたちが集まっていた。その視線の先に、アメリカでの四十日あまりのロケを終え、三日前に帰国した西悟がいた。

日本に戻った西を待っていたのはプロデューサーたちの怒声だった。

「今頃帰りやがって、馬鹿かお前は、戦争はもう終わるだろう」

「ロケの金を無駄遣いしやがって、放送枠なんてないぞ」

確かに西よりも後に海外に出たディレクターたちは、とっくにそれぞれの映像素材を手土産に日本に帰国していた。西は映像を日本に送信もしなかったし、帰国の命令にも背いた。

確固たる理由が西にはあったが、説明しても分かってくれる連中ではなかった。三日だけ時間をくれと頭を下げ、西はぶっ通しで編集し、この日の第一試写に持ち込んだのだった。

編集機の再生ボタンを叩くと、モニターに最初のカットが浮かび上がる。のどかなアメリカの田舎町の遠景だった。

肩透かしを食ったのか、「何だ、これは……」と呟きが聞こえた。

試写が始まった。

五分、十分、二十分。

西は声を張りながらナレーション原稿を読んだ。

モニターにへばりついているので、西はプロデューサーたちの顔色を窺えない。途中、ごくりと生唾を飲む音が聞こえた。西は三日でつないだ編集の荒っぽさを指摘されないか怯えながら、この時間が無事に過ぎてくれと祈り、つっかえながらも強引に原稿を読み続けた。

五十分が過ぎ、試写が終わった――。

誰も口を開かない。西の目の前に黒い帷が下りたような絶望感が広がった。西は後ろを振り向けない。そのときプロデューサーの一人が思わず、うわずった声を上げた。

「たまげたな!」

さらにもう一人が、

「こんなことが撮影できるなどありえない!」

その声に振り返った西の目に、空を睨みつける真行寺企画部長が入ってきた。真行寺の顔色はみるみる変わり、切れ長の目に光が走った。真行寺は呟くように言った。

「これは十年に一本の番組になるかもな」

その映像にはアメリカ・ペンシルベニア州の小さな町で、イラクの捕虜に囚われた息子を待ち続ける老夫婦の日々が切々と描かれていた。

息子ジェームズ・ダーデンの無残な姿を見るのが怖くてテレビを見られなくなった父親ロバーツは、倉庫から取り出してきた古いラジオに耳を寄せ、苦渋の顔で捕虜解放のニュースを求め続けた。時に耐え切れず、サダム・フセインへの憎しみと復讐の言葉を吐く。

「サダムは人間じゃない。やつは狂った犬だ。もし戦争裁判が開かれたら、私が一番に死刑執行人に名乗りを上げてやる」

母親ジャックリーヌはいつ終わるか分からない時間の中で、深いため息を吐いた。息子への愛情をにじませながら、取材者である西悟に問いかける。

「私には分からないことがある。なぜアメリカはいつも他所のことに首をつっ込むの。なぜ大統領や上院議員の息子は戦地に行かないの。なぜなの、答えて」

不思議な映像が続く。

両親の家を次々訪ねるテレビ局や新聞社、それを玄関口で手厳しく追い返す父親ロバーツ。西のクルーだけが当たり前のように家の中から、それを映し出す。

居間でテレビを見始める夫婦。イラクが捕虜解放に踏み切り、バーレーンでバスから降りてくる十人のアメリカ人捕虜たちがテレビ中継された。必死に、息子ジェームズ・ダーデンを探す夫婦の姿を西たちのカメラが追う。そこに息子はいない。

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突然、中継が切り替わり、夫妻の家がテレビ画面に映った。アナウンサーが非情の言葉を述べる。

「ダーデン少佐は生きているのか死んでいるのか分からない、家は静まり返っています」

泣き崩れる母ジャックリーヌの肩を思わず西の手がさする。

静かだがリアルな光景がドラマのように流れてゆく。西は、アメリカの小さな家の中から戦争の無慈悲さを描き出そうとしていた。

真行寺企画部長は、五日後の三月十日を放送日とする結論を出した。その日は二回目の捕虜解放で四十五日ぶりに解放されたダーデン少佐がアメリカ・アンドリューズ空軍基地に帰還する日であった。絶妙のタイミングでの放送になる。尺(放送時間)は六十分間に決まった。

通常、番組は五、六回映像を転がし、構成を練りながら編集する。六十分間の番組をつくるのに、この作業だけで最低十日はかかる。さらにナレーションを書くのに三、四日、映像を放送用テープにつなぎ直し色補正などをするECS作業に二日、ナレーションや効果音を入れるダビング作業に三日、さらに翻訳スーパーや地名などのテロップ入れに最低でも一日、合計すれば最短でも二十日かかる。それを五日でやるというのは無謀とも思えた。

「なんぼなんでも少し、無理じゃないですか」

プロデューサーたちは難色を示したが、真行寺は平然としていた。西はこの番組が日の目を見るのならなんだってやろうと思った。

真行寺の冷酷に思える色白の顔が赤みを帯びていた。

「総指揮は俺がとる」

一時間後、真行寺は八人ほどの人間を引き連れて戻って来た。番組局教養部特集グループのディレクターとデスクたちだった。

真行寺は特集グループのチーフプロデューサーを経て、現在の地位に上った。教養部特集グループは番組局のエリート中のエリートが集められた部隊で、ディレクターにとって憧れの部署だった。西が望んでもとても行ける部署ではない。

その部隊を率いるプロデューサーの権限は絶大で一本数千万円の特集番組予算も簡単に通せた。真行寺は現在の地位を得てからも特集グループを自在に扱う力を有していた。

編集室に入るや否や、真行寺は矢継ぎ早にディレクターたちに命令を出し始めた。

「稲葉は翻訳とテロップの係だ。急げ、分量が多いぞ。安城は戦争のデータを完璧に集めろ。棚橋はナレーションスタジオの確保と音響の要員を手配しろ。寺沢はこの部屋と他の作業部屋をつなぐ連絡役になれ」

特集グループのディレクターたちは、きびきびと部屋を飛び出していく。息もつかせない、あまりの見事な手練に西は気を呑まれた。

真行寺は、一連の指示を終えると最後残っていたデスクの黒原に言った。

「君は弁当係だ。みんなの食事を確保してくれ」

黒原だけは露骨に不満そうな顔をした。西は黒原の噂を聞いたことがあった。教養部に配属されたが、番組を作るのが苦手で、編集室からしばしば逃げ出し“やわな逃亡者”というありがたくないあだ名がついていた。異動のたびに影の人事部長と自ら名乗り、競馬と同じように人事予想表なるものを作成し、それを人事好きの連中にとりいる道具にしているという。

厚ぼったいまぶたにどんよりした目で蔑むように西を見る黒原に、西は嫌な感じを覚えた。ディレクターとして通用しなかったこの男をなぜ真行寺のような鋭い人間が特集グループのデスクの一人にしたのか。平然と弁当係を命じた真行寺を見ながら、西は真行寺の人格の複雑さを思った。

皆が出て行き、編集室には真行寺と西が残った。真行寺は向かい合っていた西にゆったりと近づき、西が座る椅子をぐるっと半回転させた。編集台に西を向けると、両肩を背後からつかみ、耳元で言った。

「君はこの瞬間からここを離れてはいけない。トイレに行くときも油断するな。資料、テープの類を一切持ってはいけない。全て運搬係にやらせる。食事も何でも好きなものを頼め。ひたすら、編集し、ナレーションを書くのが、君の役目だ」

西は両肩に乗せられた手のひらが、とんでもなく重たいものに思えた。

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