某|ハルカ 1|川上弘美
お名前は、と聞かれたけれど、答えることができなかった。
年齢は。性別は。
どれも、わからない。
病院の受付の、水色の上衣を身につけた女性は、ほとんど空欄の問診票に鉛筆で書きこみを軽く加えながら、頷いた。それでは、地下一階の2番診察室の前でお待ちください。彼女からの質問に答えあぐね続けていたわたしに向かって、不審な顔をするでもなく、てきぱきと指示する。
階段を下りると、薄黄色い光に照らされた廊下のずっと先に、「2」という番号が見えた。足もとが、いやにふわふわする。雲の上を歩いているみたい。という言葉がうかび、首をふる。言葉の意味はわかるけれど、その言葉のあらわす「実感」というものが、まったくわかなかった。果たして今までにわたしは、雲の上を歩いたことはあったのだったか。
ほどなくして2番の扉が開き、手招きされた。
「ささ、入って入って」
立ち上がり、開いた扉の中へと踏み入った。白衣を着た男性が、にこやかな表情で立っている。問診票をざっと眺め、男性はおもむろに言う。
「名前も、性別も、年も、わからないんですね」
男性は、楽しげだ。名前と性別と年齢がわからないという事実は、人をほがらかにさせるものなのだろうか。
「痛みや熱は、ありますか?」
男性は、にこやかな顔のまま、訊ねた。
「いいえ」
そう答えると、男性は回転椅子に腰をおろした。
「でも、雲の上を歩いているみたいで」
わたしが続けると、男性はうなずいた。白衣の胸にとめられた名札に、「KURA」とある。
「あの、わたし、今まで雲の上を歩いたことがあるんでしょうか」
男性に、聞いてみる。
「ないでしょうね、たぶん」
「ないんですか」
「ええ、人間は、ふつう雲の上を歩くことはできませんから」
なんだ一般論かと、少しがっかりする。男性がわたしのことをよく知っていて、その結果わたしが雲の上を歩いたことがないと答えてくれたのかと、一瞬期待したからである。
「あなたは、クラさん、とおっしゃるのですか」
気を取り直し、男性にまた聞いてみる。
「はい、蔵です。蔵利彦といいます。医師です」
医師、という言葉の意味も、わかる。病気を治療する職業に従事している者のことだ。
「では、わたしは病気なんですね?」
「それはまだわかりません」
蔵利彦は、椅子に座ってわたしを見上げている。よかったらあなたも座ってください。続ける。わたしは蔵利彦のすぐ目の前にある小さな椅子にすとんと腰をおろした。
「なぜ病院に来たのかも、よくわからなくて」
「今までの記憶が、全然ない、と。いちばん古い記憶は、どんな記憶ですか」
蔵利彦は、問診票を覗きこみながら、聞いた。
「受付の水色の上着の女性に、問診票の内容についての確認をされたあと、地下一階、2番扉の前で待て、と言われた、それがいちばん古い記憶です」
わたしは、即座に答えた。ほんとうは、しばらく考えてから答えた方がいいような気もしたのだが、受付に来るより前の記憶は、実際のところまったくなかったのだ。
「それは、今からどのくらい前の記憶ですか」
「たぶん、十分くらい前だと思います」
蔵利彦は、満足そうなため息をついた。
「なるほど。たいへんに、明確ですね。それでは、しばらく入院して、検査をしましょう」
蔵利彦がそう言うなり、彼の背後の扉から、看護師が一人、ひらりとあらわれた。わたしの手を引き、立たせる。蔵利彦は、わたしに目くばせをした。
「ここの病院は、食事がおいしいんですよ。楽しんでくださいね、入院生活を」
1011号室。それが、わたしの病室となった。病院の最上階にある個室である。たしかに病院食はおいしかったけれど、入院一日目の夜、わたしはなかなか寝つかれなかった。
一週間の間に、さまざまな検査をおこなった。
「逆向性健忘の一種とも考えられはするのですがねえ」
蔵利彦は言った。
「逆向性健忘?」
聞くと、蔵利彦は軽く頷いた。
「ある時以前の記憶を、すべてなくしてしまう症状のことです。あなたは、受付の女性に2番の診察室前に行けと言われる以前の記憶が、まったくないのですよね」
「はい」
「とはいえ、判断はなかなか難しい。ともかく、記憶のありかたが、あなたの場合かなり極端なので」
「極端」
ぼんやりと、わたしは蔵利彦の言葉を繰り返した。
「それは、どういうことなんですか?」
ぼんやりしたまま、聞いた。
「あなたはまるで、受付に来た時にはじめて、この世に存在しはじめたようにみえるのです」
「は?」
「それまでのあなたというものは、どこにも存在していなかったのではないかという意味です」
「それ、いったいどういうことなんですか」
「存在、と言っても、たとえば哲学的な意味での『存在』ではありません。そのままの意味です。あなたがこの世に生まれ出たのは、受付に来る直前だったのではないか、と。あなたの身体は、実際に存在していますし、これといった疾病もありません。あらゆる検査結果がそのことを証明しています。でも」
蔵利彦は言いながら、わたしの顔をじっと見た。
「あなたは、自分がどんな顔をしているのか、知っていますか?」
自分の顔。自分の顔のことなど、考えたこともなかった。病室にある鏡には、顔はうつるけれど、必要もないので、ちらりと見ることしかしていない。あらためて自分の造作がどんなだったか思いだそうとしても、できなかった。
「知らないですよね。では、今ご自分の顔を、よく見てみてください」
蔵利彦は、机の上に伏せてあった手鏡を、わたしに渡した。手に取り、じっと覗きこんでみる。
目が二つ。鼻は、高くもなく低くもない。くちびるには、ほとんど色がない。前髪がかかっているので、眉は隠れている。
「男女どちらかわからないような顔ですね」
言うと、蔵利彦は頷いた。
「男女どちらだか判別できないんです。未分化なんですね。染色体も不安定ですし」
「は?」
「そういう者が時々いると、聞いたことがあります。医学界の都市伝説みたいなものだと、今までは思っていたのですが」
時々、いる。そんなふうに言われても、困る。性的に未分化で、染色体が不安定。いったいそんな存在が、この世にあるものなのだろうか。わたしはいったい、何なのか? もしかして、人工知能搭載人型アンドロイド、とか?
「いやいや、あなたは人間、あるいは人間に限りなく近い生物、ですよ。実際にそういう存在に出会ってしまう確率はほぼないはずなのに、出会ってしまった。ぼくは、とても嬉しいですよ」
蔵利彦はそう言いながら、電子カルテに何かを打ちこんだ。
「さて、それでは、これから治療に入りましょう」
「治療」
わたしは、ぼんやりと聞き返す。
「そうです。治療して、あなたのアイデンティティーを確立しようではありませんか」
「アイデンティティー」
「自分が自分であるよりどころ、というほどの意味です」
「アイデンティティーの意味は、知ってました。なぜ知っているのか、よくわからないのですが」
「それはよかった。では、さっそく治療方針を説明しましょう」
そう言った蔵利彦が、続けて「説明」してくれた治療方針とやらは、ひどく奇妙なものだった。
丹羽(にわ)ハルカ。その名前に決めたのは、わたし自身だ。
何回か、紙に書いてみる。丹羽ハルカ。丹羽ハルカ。
十六歳。女性。高校二年生。埼玉県出身。趣味は占い。
「ま、そのくらいでいいでしょう」
と、蔵利彦は言い、丹羽ハルカの特徴をそれ以上挙げようとするわたしを制止した。
「あんまりこまかく作りこむと、きゅうくつになりますからね」
「そういうものですか」
「そうそう、それより大事なのは、どんなふうな雰囲気の者なのか、ということです。出身地や趣味などよりも、丹羽ハルカのかもし出す感じを、最初に決めるべきですね。人は、そういうものから、自然にその人物の性格や背景を想像するものですからね」
せっかくわたしが「丹羽ハルカ」の出身地と趣味を決めたのに、蔵利彦は言う。少しだけ、がっかりする。
「今、しょんぼりした気分になりましたね。なるほど、丹羽ハルカは案外ものごとを気に病む。内向的なのかな」
「なんだか、誘導してます?」
「いやいや、それじゃあ治療にならない。決めつけすぎましたね、ぼくが」
蔵利彦が言うように、丹羽ハルカは内向的なのだろうか。じっと考えてみる。わからなかった。まっさらな紙に、何かの輪郭を少しだけ描きはじめたような気分である。けれど、ひと筆でも描いてみると、これから描こうとしているものの向かう先が、わずかではあるけれど感じとられてきそうな、そんな予感は確かにあるのだった。
「丹羽ハルカは、けっこう適当なタイプな気がします」
「適当。うん、なるほど。柔軟なんだね」
「よくいえば、まあ」
少し、楽しくなってくる。会ってからずっとにこやかで機嫌のいい蔵利彦には、ほんとうのところ時々むっとさせられていたのだけれど、適当、という丹羽ハルカの特質がはっきりしてきた今、わたしの機嫌もいくらか上向きになりつつあった。
「あなたは、転校生です。高校二年の一学期の途中から転校してきた女性。どうぞ、あなたの役を楽しんでください」
そうだ。わたしはこれから、役を演じるのだ。丹羽ハルカという役。役を演じることこそが、わたしの治療なのだそうだ。
病院を出ると、もうわたしは丹羽ハルカだった。蔵利彦と病室で喋っていた時には、丹羽ハルカという架空の存在のことなど、少ししか実感できていなかったのに、病院を出て歩いているうちに、わたしは次第に、「丹羽ハルカ」という者になりつつあった。
(これは、やっぱり、面白いかも)
丹羽ハルカは、電車を二つ乗り換えて学校に着いた。玄関を入ったところにある事務室で名前を告げると、すぐに担任がやってきた。
「丹羽さんですね。こっちへ」
担任は、男性である。予鈴が鳴り、わたしは担任と共に教室に向かった。
丹羽ハルカ、という文字を黒板に書いているうちに、ますます自分が丹羽ハルカという人物である実感が高まってゆく。肩がぶるっと震えた。
「武者震いですね」
と、その日帰ってから病院で一日の報告をした時、蔵利彦は言うのだが、それはまた後刻の話である。
* * *