その日、朱音は空を飛んだ 2┃武田綾乃
「お疲れさまです」
グラウンドに設置されたプレハブは、運動部の部室用に作られたものだった。サッカー部の部室に入るなり、ジャージ姿の一年生がこちらに頭を下げてくる。
それに手を振って応じながら、二人はロッカーに荷物を押し込んだ。室内の中央に並んだベンチでは、三年生たちが楽しげにゲームをしている。壁に貼られた日程表には基礎練習のメニューが書かれているが、それを律儀に守っている部員なんて一人もいない。ウチの弱小サッカー部に、本気で部活に取り組んでいる奴なんていやしなかった。
「お前ら遅くね」
声を掛けてきたのは、二年生の吉田幸大だった。髪を丸刈りにしているせいか、彼は野球部員と間違えられることが多い。
「悪い。ちょっと寄り道してた」
俊平の台詞に、幸大は呆れたように肩を竦めた。
「部活前の寄り道ってなんだよ」
「なんでもいいだろ。それより高野は?」
「学校休んでるんだってさ」
「マジかよ」
露骨に落胆を示す俊平に、幸大は揶揄するように口端を吊り上げた。会話に入る気にもならず、祐介は二人の背後でスマホを取り出す。トークアプリを起動させれば、部内連絡用のサッカー部のグループに『今日は休みます』という高野からの短いメッセージが入っていた。
高野純佳はサッカー部の唯一のマネージャーだ。絵に描いたような優等生で、クラスでは委員長を務めているらしい。目立つタイプではないが、よく見ると整った顔立ちをしている。気配りのできる優秀な人間で、何より胸がでかい。タイプではないけれど、告白してきたら付き合ってもいいとは思う。
「俊平さ、知らねえの?」
「知らねえって何を?」
「高野が休んでる理由」
「体調不良じゃねえの?」
「それがさ、」
そこで一度言葉を区切り、幸大は周囲を見回した。部員たちはみな雑談に夢中で、こちらを気にする様子はない。それでも幸大は他者に聞かれることをはばかるように、その声量をぐっと落とした。
「高野って、川崎朱音と幼馴染らしいぜ」
「マジで?」
俊平が目を見開く。マジマジ、と幸大は頷いた。
「しかもさ、アイツ、あの時屋上にいたらしい」
「じゃあ、川崎が死んだところ見ちゃったってワケ?」
「噂によるとな。だから今日も学校休んでるんだと」
「うわあ、幼馴染が死ぬとこ目撃するとかキツすぎだろ。高野が可哀想だな」
素直に同情する俊平に、幸大は複雑そうな表情を浮かべている。その心情を汲み取った祐介は、俊平の肩に肘を置くと無理やり会話に割り込んだ。
「幸大は、高野に同情してないみたいだけどな」
図星をつかれたのか、幸大がギクリと身を強張らせる。俊平が唇を尖らせた。
「いきなり何言い出すんだよ、祐介は」
「いやさ、さっきの話聞いて高野カワイソーって素直に思うのはお前くらいだろ」
「なんで? 可哀想じゃん」
こちらが言わんとしていることが本気で分からないのだろう。俊平は不思議そうに首を捻った。祐介は大きくため息を吐くと、暗くなったスマホ画面をコツコツと爪先で叩いた。
「あのな、川崎が死んだときに、高野は屋上にいたんだぜ? 偶然その場に居合わせたワケねーだろ。絶対なんかあったはず──って、幸大は思ってるワケだ」
「そうなのか?」
「いきなり俺に振んなよ」
俊平の曇りのない眼差しに、幸大はばつの悪そうな顔をした。どうやら同じ部の仲間を疑っているとは思われたくないらしい。
俊平が判断を仰ぐようにこちらを見る。
「祐介も高野が怪しいと思うわけ?」
「ま、普通は怪しいと思うわな」
「でも、高野ってすげえ良い奴だし、絶対悪いことはしてないと思う。スポドリだって俺の好きな濃さで毎回作ってくれるし……いや、スポドリはどうでもいいんだけど、その、マジで良い奴だから、アイツ」
同学年の女子生徒を庇うにしては随分と必死な弁明だ。これはもしかして、と祐介と幸大は互いに顔を見合わせる。二人のアイコンタクトに気付いた様子もなく、俊平は未だにいかに高野が優しい人物であるかを滔々と捲し立てていた。
「クラスでも人望あるみたいだし、みんなに気を配るタイプだから、絶対幼馴染が死んじゃって心痛めてると思うんだよな。そういうとこに変な噂流すのは良くないっていうか、疑うのは止めたほうがいいって俺は思うというか──」
「俊平はさ、高野のこと好きなわけ?」
相手の言葉を遮り、祐介は直球な問いを投げかけた。淀みなく動いていた彼の口は途端にピタリと静止し、その顔は見る間に赤く染まっていった。幸大がクツクツと愉快そうに喉奥を震わせる。
「そういやお前、清楚系がタイプだったしな」
「ほんとベタだなあ」
「ほっとけ」
冷やかす二人の肩を、俊平が軽く殴る。ずん、と走った衝撃に、祐介は息を止めた。相変わらず馬鹿力だな、と思う。殴られても仕方がないので、文句は言わないけれど。
「ごめんごめん」
肩を摩りながら、幸大が軽やかな口調で告げる。俊平は未だ腹を立てているようで、その場で腕を組んで仁王立ちしている。幸大は後頭部を搔くと、慌てた様子でフォローの言葉を添えた。
「ま、休んでるだけで怪しいとか言うのは良くないよな。あのクラス、他にも欠席してる奴がいるみたいだし」
「他にもって?」
「近藤理央だよ。ほら、美術部のすげー地味な奴。俺さ、去年アイツと同じクラスだったんだよな。近藤、川崎が飛び降りた時、たまたま校舎裏にいたんだと」
「たまたま? そんなことありえるか?」
「知らねーよ。あと、高野や近藤と違って学校には来てるけど、あの夏川莉苑も校舎裏に居合わせてたって話だ」
入学当初から、夏川莉苑という名前は学年中に知れ渡っていた。トップの成績で入学試験に合格し、今に至るまで模試では学年一位の座を守り続けている。進学校の人間にとって、成績というのはステータスだ。それをほしいままにしている彼女はこの学校で特別視されていた。
祐介は夏川の顔を思い出そうとしたが、脳裏に浮かんだのはぼんやりとした肌色の像だけだった。そもそも、祐介は夏川と直接話したことがない。彼女がどんな人間かなど、明確に覚えているはずもなかった。
「近藤と川崎って、仲良かったの?」
「さあ? 女子の友人関係なんて知らねーし」
祐介の問いに、幸大はあっけらかんと答える。俊平が首を傾げた。
「なんでそんなことが気になんの?」
「いや、知り合いの死体を発見したぐらいで学校休むかなって思って」
それは素直な疑問だったのだが、俊平はぎょっとした様子で目を剝いた。
「そりゃ休むだろ、クラスメイトが死ぬとこを目撃するとか、精神的にキツすぎるって。俺は絶対無理」
「そうか?」
もしも仲のいい友人が死んだら──例えば、俊平や幸大が死んだなら、祐介はきっと悲しむだろう。二度と会えない事実を受け止め、能天気に日常を消費していたことを悔いるかもしれない。
だけど、単なるクラスメイトの一人が死んだとして、ソイツが生きていた頃に欠席したときと一体何が変わるというのだろうか。生きていてもいなくても、大した違いはないじゃないか。
「そろそろ練習始めるぞ。さっさと着替えろよ」
先ほどまでゲームに夢中だった部長が、おもむろに腰を上げる。制服姿のまま雑談していた部員たちは、慌ててシャツを脱ぎだした。くしゃくしゃになった体操服に頭を通しながら、俊平が大きくため息を吐く。
「あー、早く帰りてー」
まったくだ、と祐介は内心で同意した。
帰宅するなり、祐介は自室へ直行する。扉を閉め、ベッドに寝転がると、ようやく帰ってきたという実感が湧いてくる。
「あー」
枕に頭を押し付けながら、祐介はスマホを取り出した。天井に顔を向けると、蛍光灯の光が眩しい。網膜に焼き付く光の残滓が視界の中央に出しゃばっている。スマホ画面に指を滑らせ、祐介は例の動画を再生した。
川崎朱音が柵を越える。彼女は一度振り返り、それから軽やかな足取りで空へとその一歩を踏み出す。スピーカーには女子生徒の耳障りな悲鳴が入り込んでいる。
カメラは落下する川崎の体軀を追っていたが、地面に接触する直前で屋上へといきなり焦点を移した。グロテスクな映像にさせまいとする撮影者の配慮だ。多くの人間に見せることを前提としたカメラワーク。風に紛れ、花びらのような何かが画面端に映りこむ。屋上の柵から下を覗き込むようにして、一人の少女が身を乗り出した。映像はいつも、そこで終わりだ。
「はーあ、」
再生ボタンを押す。もう一度、もう一度。動画は何度も繰り返され、同じ光景が再現される。薄っぺらい悲鳴。落下する少女。その全てが祐介の興奮を搔き立てる。ごみ箱に積まれたティッシュの山は、命になれなかったオタマジャクシたちの墓場と化していた。
「祐介、ご飯よ」
一階から母親の声が響く。父親はまだ帰ってきていない。どうせ今日も残業なのだろう。祐介はスマホを充電器に繫ぐと、そのまま天井に向かって伸びをした。
「早くしないとご飯冷めちゃうわよ」
「今行くって!」
そう返事し、祐介はわざと荒々しい足取りで階段を下りる。居間に足を踏み入れると、ニンニクの刺激的な香りが鼻先を掠めた。どうやら今日のメインディッシュは野菜炒めらしい。皿の上に並んだ野菜たちは、焦げ付いたせいか茶色を帯びていた。
「いただきます」
食事のとき、母親は必ず手を合わせる。水で荒れた指先はその先端まできっちりと合わせられており、祐介に放課後の俊平の姿を連想させた。
母親と二人きりの食卓は、少し気まずい。沈黙を埋めるように、祐介は白米を口の中に運ぶ。小鉢に入った煮豆を摘まんでいると、おもむろに母親が口を開いた。
「そういえば、学校で女の子が死んじゃったんでしょう? 今日スーパーでばったり福沢くんのお母さんに会ったんだけどね、今いろいろ大変みたいね。土曜日の保護者会、母さんも行けたら良かったんだけど」
「ま、先生たちはバタバタしてるよ」
「やっぱりいじめ?」
「さあ? 学校側はいじめはなかったって言ってるみたいだけど」
「本当かしらね。母さん、絶対おかしいと思うのよ。大体、遺書がないってのも変じゃない? 保護者会のときにね、先生が言ってたらしいの。朱音ちゃんって子が飛び降りた時、屋上にいた子がいたって。その子が犯人なんじゃない?」
その声はどこか軽やかで、まるでテレビドラマの犯人を推測するかのような口ぶりだった。
奥歯で嚙み潰した豆を呑み込み、祐介は静かに母親を見据えた。
「犯人って……母さんは川崎が誰かに突き落とされたとでも思ってるワケ?」
「絶対とは言わないけど、その可能性もあるんじゃない? だって、年頃の女の子たちでしょ? 好きな男の子の取り合いとかしたんじゃないの?」
その推理の荒唐無稽さに、祐介は思わず眉根を寄せた。母親のこういうところが、祐介はあまり好きではなかった。彼女は恋愛というものを過剰に意識している節がある。
「そのくらいで殺したりしないよ。馬鹿じゃないんだからさ」
「するわよ」
そう、母親は断言した。
「女はね、恋愛に関しては怖いわよ。人だって殺せるんだから」
「大袈裟すぎだろ」
「全然大袈裟なんかじゃないわ。アンタも変な女に捕まらないよう気をつけなさいね」
「ハイハイ」
結局のところ、母親はしたり顔で息子に恋愛絡みの講釈を垂れたかっただけのようだ。これ以上この場にいたくなくて、祐介は皿の中身を一気に口の中へと搔き込んだ。
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