見出し画像

小林聡美さんが愛した猫のホイちゃん、「虹の橋」を渡る #5 聡乃学習

主演をつとめた『かもめ食堂』をはじめ、数々の映画・テレビドラマで活躍中の女優、小林聡美さん。1月からはドラマ「ペンションメッツア」(wowow)に主演しています。『聡乃学習』は、小林さんががていねいに、かつ軽やかにひとりの日常を送る様子をつづったエッセイ集。くすっと笑えて、そして読後、すがすがしい気持ちになれる本書から、一部を抜粋してお届けします。

*  *  *

「初夏ノ日君ヲ送ル」

猫のホイちゃんが、今まで聞いたことのない、怪しいくしゃみのような咳のようなものをするようになったのは、空気が温んできた三月の末頃のことだった。

画像1

もともと慢性の副鼻腔炎で、粘性の強い鼻水がくしゃみとともにズビっとでることはよくあったけれど、それとは明らかに違う。風邪でもひいたのかな、もうすぐ十六歳だし、今までよりもっと住環境や体調の変化に配慮してやらないといけないなあ、と、加湿器を強にして、ヒーターの向きや寝床のホットカーペットの暖かさを確かめた。

ホイちゃんはその昔、公園の植え込みで野垂れ死にしそうなところを保護した猫だった。八月の暑い日、犬と公園を散歩していたら、子猫がひょこひょこ後をついてきた。犬も人も怖がらない。首輪をしていないけれど、こんなに警戒心のないところを見るとどこかで飼われている猫だろう、と子猫を交えた楽しい散歩のひと時をすごした。

その子猫が植え込みでぐったりしているのを発見したのは、それから一週間ほど後のことだった。彼は野良猫だった。救わないという選択肢はなかった。当時我が家には猫二匹と犬一匹がいた。彼らとの相性もあるけれど、なんとかなるだろう、なんとかする、とその猫を家族にすることに決め、すぐ動物病院へ。

そこで、おそらく生後四か月、体重二キロ、そして慢性の副鼻腔炎であると診断された。副鼻腔炎はかなり重篤で、一生付き合っていかなくてはならないだろうと。実際、それから折あるごとに鼻と目の洗浄のため病院に通うことになる。

家族となった子猫はポイと捨てられていたので、ホイちゃんと名付けられた。ホイちゃんはイエネコになって、のびのびしていた。他の猫たちは生まれた時からイエネコ人生なので首輪はしていなかったが、ホイちゃんは先の見えない厳しい外での暮らしを生き抜いて、このたびイエネコとなった証として、小さな鈴のついた首輪をはめた。家の中で暮らすのに首輪はいらないだろうとも思ったが、これから我が家のイエネコとして幸せに、という願いもあった。

なおかつホイちゃんは首輪を気に入っていた。家の中でチリチリ鈴を鳴らすホイちゃんは得意げだった。公園で初めて会った時から大きな犬にすり寄ってくるような大胆な猫だったが、先住の猫とも友好的な関係をすぐに築き、三匹で猫球になっているかと思えば、ハウスでくつろぐ大きな犬の懐に潜り込んで一緒に眠った。

しかし、元外猫ゆえの免疫力の弱さということなのか、耳や目や皮膚にたびたび不調があらわれた。そのたびにホイちゃんは病院に通った。

画像2

推定一歳の誕生日を迎える頃、ホイちゃんは右目の手術のためひと月入院した。細菌性の結膜炎ということだったが、他にもいろいろ併発していた。なんでも瞬膜(目の球のふちにある白っぽい膜)と結膜の癒着、重度の結膜角膜炎とのこと。その瞬膜と結膜の癒着を剥離するための手術だった。

目の手術! あんな小さな目ん玉にメスを入れるなんて! 昔テレビドラマで観たのは、手術後、頭に巻かれた包帯をそろりそろりと解いていき、いよいよゆっくりと目が開かれ、「見える……私見えるわ……(涙)!」と家族抱き合って喜ぶシーンだが、退院の日、病院に迎えに行くとホイちゃんはすでに顔丸出しで目もパッチリ開いていた。

けれども手術を受けた右目はそれまでよりやや小さくなっていた。手術前の目はクリクリして相当に可愛らしかったので、私はちょっと悲しかった。けれど、左右大きさの違う目を見開いて、私を認識している様子を見て、安心した。そして、左右目の大きさが違うにもかかわらず、こんなに可愛いとはいったいどういうことか、と思った。

それからも三匹の猫と一匹の犬たちは友好的に暮らした。ホイちゃんは特に先住犬が大好きだった。犬のお腹にぴったり背中をくっつけてよく眠っていた。たまに犬の肩や脇腹を丹念にマッサージしていた。またある時は、椅子の陰に隠れて高齢の猫が通るのを待ち伏せし、不意に襲い掛かる“おやじ狩り”に興じた。そのたびにホイちゃんの鈴はチリチリ鳴った。必殺仕事人ならさしずめ「鈴のホイ」といったところか

そんな犬猫四匹の平和な暮らしはしばらく続き、ホイちゃんが六歳になった年、最年長の猫が死んだ。その二年後にもう一匹の猫も。その猫たちの最晩年まで鈴のホイはおやじ狩りをしていた。本当にひどい話だ。当の本人も人間でいうと五十手前、立派なおやじだというのに。

犬とホイちゃん、ふたりっきりの至福の時間に、しばらくして新顔の子猫が加わった。そこから急にホイちゃんは貫禄がついてきて、いちいちまとわりつく子猫にどっしりと対応していた。鈴のホイも年貢の納め時のようだった。

しかしそんな新しいコミュニティーもつかの間、人間の都合で彼らは離れ離れになることに。ホイちゃんと子猫は私と暮らすことになった。そして、どこからどう見ても立派なイエネコのホイちゃんの首輪は、もう外すことにした。

(続きは本書にて)

◇  ◇  ◇
連載はこちら↓

聡乃学習 小林聡美

画像3

紙書籍はこちら

電子書籍はこちら