#4 「孤独死」は本当に不幸なのか? 高齢社会を一人で生き抜く心がまえ
家族はつねに仲よく、助け合い、わかり合うべきだ……。そんな世の中の常識にメスを入れるのは、ベストセラーとして記憶に新しい、下重暁子さんの『家族という病』だ。「家族」は本当にすばらしいものなのか? なぜ「家族」は美化されるのか? 結婚から、出産、介護、相続、お墓、孤独死まで、読めば読むほど「家族という病」から自由になれる本書より、一部を抜粋してお届けします。
* * *
「幸福な家族」の形とは?
NHKのドキュメンタリーだったと思うが、とうの昔に家を出てドヤ街に暮らす父親を捜す息子の話があった。
息子は父親が家出したために苦労が絶えず、そのため長い間父親を恨んでいたが、自分も成人し就職して、なぜ父が家を出たのか、気になってどこにいるのか、捜し始めた。やっとのことで大阪の釜ヶ崎に生きていることをつきとめる。
心を決めて実父に会いにゆく。生まれて間もなく別れたので顔もさだかではない。最初はぎこちないが、回を重ねるにつれ、少しずつ話が出来るようになって、親しみが生まれていく。
息子は名古屋に仕事を見つけていて、正月や何かの折に父と一緒に食事をするまでになった。
最近、息子が少しゆとりのある部屋を見つけて、父と一緒に暮らすようにしたという。再生した家族の誕生である。父親も嬉しそうだ。この家族の場合、まず息子の思いがあり、それが父親捜しの行動に結びつき、父と時間をかけて話をして、共に住もうという結論に至った。
何年も前に別れて顔も知らない者同士が思いをはぐくんで家族が出来上がった。思いが生まれて家族という形態がついてくる。心がつながっていなければ、家族ではない。
家族という形より先に思いがあって形態が出来ていく方が、家族と呼べるのではないか。DNAなどさほど重要ではない。
もう一度、幸福な家族とは何なのかを考えてみたい。
死に方はその人の「生き方」
「畳の上で死にたい」
日本人はそう思う人が多い。今ならさだめし、「ベッドの上で死にたい」ということだろうか。
自分の家で家族にみとられながら死にたいと思う人が多い。実際には病院のベッドで死ぬ人が多いのだが……。
家族のいない人はどうするのか。みとってくれる家族もおらず、誰にも気づかれず一人息を引きとっていたという例は珍しくはない。高齢化が進むにつれて独居老人が増え、都市部では死んでいても誰も気がつかないことも多い。
地方の場合は地域社会のつながりが強いから、誰かが気づく。郵便配達人や新聞配達員が配達のついでに声をかけて安否を確かめる。元気な証拠に黄色い旗を玄関にあげておく地方もある。
先日地震のあった長野の白馬村では、お互いの家族構成や、誰がどこに寝ているかまで把握していたために、地震直後に倒れた家の中から被災者を救い出すことが出来て、犠牲者が出なかった。
高齢社会では、家族とは血のつながった人間ではなくて、地域社会の人々ではなかろうか。それがあれば淋しくはないし、不便でもない。
今一度、家族とは何かを考えてみる時期に来ている。
都会で独居してそのまま亡くなるケースを人々は悲惨だというが、はたしてそうだろうか。
本人は一人暮らしを存分に楽しみ、自由に生きていたかもしれない。誰にも気づかれず、ひっそりこの世を去ることが希望だったかもしれない。
後始末で迷惑をかける部分もあるが、本人が満足ならそれでいい。一人で死ぬのは、覚悟の上だろう。少しずつ食物を減らして水だけにし、最後にはそれもとらずに亡くなるという死に方を選ぶ人もいる。
野たれ死にといわれようと、覚悟の上ならいいのではないか。
心ない家族にみとられるよりは満ち足りているかもしれない。
死に方はその人の生き方でもある。その人らしい死に方なら、それで十分だと思えるのだが。