某|春眠 1|川上弘美
その名前は、どうかなあ。蔵利彦は言ったが、ぼくは譲らなかった。春に、眠い、と書いて、はるみ。
「ハっていう響きが好きなの? ハルカに、はるみ」
水沢看護師は笑った。そうか、同じハで始まる名前なのだなと、その時はじめて気がついた。
次になるのは、野田春眠。丹羽ハルカと同じ、高校二年生。やはり転校生として、丹羽ハルカの行っていた学校に通うことになっている。
「同じ学校の、同じ学年に転入って、丹羽ハルカと野田春眠が同一人物だって、ばれちゃいませんか?」
心配になって、蔵利彦に聞いたのだが、蔵利彦はにこやかに首を横にふった。
「ほら、見てごらん」
言いながら、ぼくを病室の洗面台のところに連れてゆく。鏡の中に、見たことのない男の子がいた。
「おおっ、これは」
思わず、声がもれた。
「ほら、声もちゃんと低くなってる。適応性が高いね、さすがだ」
鏡の中の男の子は、丹羽ハルカとはずいぶん違う顔をしていた。輪郭だけは、似ていないこともなかったが、第二次性徴を経て男性性を増した造作が、その顔の中にはおさまっていた。眉はひいでて太いし、鼻の下にうっすらと髭ひげの萌芽らしき黒ずみもある。のどぼとけがあらわれ、あごも角張っている。
「背も、高くなってるわね」
と感心しているのは、水沢看護師だ。
「けっこう、好みのタイプかも」
「ぼくは、水沢さんのことは、別にタイプじゃありません」
答えると、水沢看護師は、ふん、と鼻をならした。
「最初から、生意気ね。それに、最初から、しっかり性格づけができてるようね。で、丹羽ハルカの記憶は、あるの?」
「ありますよ」
「あら、じゃあ、混乱しないようにね。ボロとか、出さないでよ。長良さんやユナの前で」
険悪な雰囲気になりかけたところを、蔵利彦が制止した。
「やめなさい。患者の心を騒がせてどうするの」
注意されていい気味だったので、ぼくは水沢看護師に向かって舌を出してみせた。
「ガキ」
というのが、水沢看護師からの反応だった。
野田春眠として高校に転入するのは、丹羽ハルカとして転入するのよりも、ずっとたやすかった。ユナと長良さんの隣のクラスであるこの教室には、最初から「友愛」のような気分が満ちていた。あるいは、ぼく自身に「友愛」の気分が濃かったのだろうか。休み時間はにぎやかで、ホームルームの時間も活発だった。最初にぼくが言葉をかわしたのは、黒田という男子生徒である。
黒田は休み時間になるとすぐ、転校生として紹介されたぼくに、さりげなく話しかけてきた。
「喉、かわかない?」
へ? と、ぼくはまぬけな声をだしてしまった。丹羽ハルカだった時とはちがって、すぐさま話しかけられたことがまず意外だったし、ごくありふれたことを言っているにもかかわらず、黒田の言葉にもなんだか意表をつかれたからだ。
「うん、まあ」
十月にしては、少し暑い日だった。
「じゃあ、ちゃーでもしばかん?」
「関西出身なの?」
「いいや」
「それに、男が男に向かってナンパ用の発話をするのって、普通なの?」
「いや、ちゃー飲むのは、べつにナンパの時だけとは限らんし、そもそも理屈っぽいな、おまえ」
黒田は笑い、机の中から二リットル入りのコーラのペットボトルを取りだした。半分くらいに減っている。続いて茶色い紙コップも取りだし、ボトルのふたをあけて、こぽこぽと二つの紙コップについだ。
「ほらよ」
黒田は言い、自分に近い方の紙コップを手に取り、いっぺんに飲み干した。そして、むせた。ぼくも、もう片方のコップを取り、ちびちびとコーラを飲んだ。
「ぬるい。それに、ちゃーじゃないよね、これ」
「教室に冷蔵庫はない。それから、やっぱりおまえ、理屈っぽい」
黒田は、冷静に答えた。
じきに予鈴が鳴り、授業が始まった。四時間目が終わったあとで、生徒たちの動きを観察したが、このクラスでは、机の近い者どうしが適当に集まって適当に弁当を食べることになっているようだった。ぼくは黒田たちと一緒に飯を食った。
弁当を誰と食べるかということについて、丹羽ハルカが実は少なからぬプレッシャーを感じていたことを、ぼくは今日知った。プレッシャーを感じなくなった今日になってそのことに初めて気がついたのだった。
その日帰ってから、ぼくは日記にそう書く。蔵利彦は、じっと日記を読んでいた。そうか、現代の高校生は、なかなか大変なんだな。昔は、そういうのは、中学くらいで終わったような気がするんだが。蔵利彦は、つぶやいた。
黒田は、クラスでは人望があるようだった。ぼくは黒田のそばにいたおかげからか、いちにちを平穏に過ごし、その日だけでクラスの男子のうちの十二人、女子は三人と、会話をかわしたのであった。
黒田には、恋人がいる。
長良頼子(よりこ)。バスケット部所属。性格・明朗。
長良って、もしかして、丹羽ハルカだった時の、ただ二人の友だちのうちの一人、あの長良さんと関係があるのだろうかと、ぼくはじっと長良頼子を観察した。
顔が、よく似ている。でも、背丈は長良頼子の方が高いし、長良頼子の方が、顔だちがぜんたいに整っている。
とはいえ、ぼくは、長良頼子より長良さんの顔の方が、好き
と、後に日記に書くことになるのだが、それはともかく、長良頼子は悪い感じの女子ではなかった。
「きょうだいとか、いるの?」
長良頼子に、聞いてみた。
「いるよ。お姉ちゃんが、同じ学年に」
「同じ学年に、お姉さん?」
「うん、双子なの」
黒田は、ぼくと長良頼子との会話を、黙って聞いていた。長良さんと長良頼子が双子だったとはと、ぼくは内心で驚いていた。
「どのクラス?」
長良さんのことを知っていることをさとられると困るので、何も知らないふうをよそおって、訊ねてみる。
「隣のクラス」
そういえば、長良さんの名前は、何というのだろう。知る前に、丹羽ハルカでいることをやめてしまった。
「そのお姉さんと、きみは、似てる?」
というぼくの質問に、長良頼子は、
「似てない」と答え、ほぼ同時に黒田が、
「似てる」と答えた。長良頼子は、嫌そうな顔をした。
学校の怪談が話題になったのは、二学期の期末テストが始まる少し前だった。
「学校の怪談って、なんか、古典的だなあ」
黒田は笑ったが、ほかの奴らは、けっこう真剣だった。
「まず、隣のクラスの担任の、芦中(あしなか)の謎」
隣のクラスの担任、すなわち丹羽ハルカだったころの担任の名前が「芦中」だったことも、ぼくは知らなかった。長良さんの名前を知らないのと同様に。一学期の間在籍していたのに、芦中のことはほとんど覚えていなかった。なんてことだろう。
芦中は、男で、たぶん三十代のはじめで、たしか英語の教師だということくらいしか認識していなかった、丹羽ハルカ。長良さんの名前さえ知らなかった、丹羽ハルカ。丹羽ハルカという人間は、かなり他者に対する関心が希薄だったということになる。
野田春眠は、そうではない。だいいちに、野田春眠は、女性に対する関心が非常に高い。この年齢の男性であるから、当然性的関心が中核となってはいるが、男性に対する関心だって、丹羽ハルカよりは遥かに高い。
「芦中の謎って、なによ」
黒田が聞く。
「毎月、乗る車が変わる」
「金持ちなの?」
「いや、どれもたいがいしょぼい車」
「しょぼくても、毎月車を買い替えるのって、お金がかかるんじゃない?」
「レンタカーかも」
「レンタカーを毎日借りるのって、もっと金がかからねえか?」
「廃車になったような車なのかも」
「いや、それよりは、もうちょっと普通の今の車っぽい」
「去年の七月なんて、紺色のアウディに乗ってたよ」
「アウディって、外車?」
「うん。でも、ちょっと古い型みたいだったけど」
生徒たちは、くちぐちに芦中の自家用車について言いあっている。それのどこが怪談なのか、ぼくにはよくわからなかった。
「謎と怪談は、違うよね」
そうぼくが言うと、一瞬場がしんとする。すぐに長良頼子が、
「そうそう、怪談っていえば、芦中の車のことなんかよりも、行方不明の生徒、だよね」
と、取りなすように言った。
行方不明、という言葉を聞いて、ぼくは少しだけ顔をあげる。もしかして、丹羽ハルカの「失踪」は、その「怪談」に関係しているのだろうか?
「行方不明の生徒が今年出たから、期末試験の難度がすごくあがるっていう、あの話。ほんとなのかな」
長良頼子は続けた。
行方不明って、不登校や退学とはちがう、正真正銘の行方不明のことなんだよ、と、長良頼子は説明した。
「行方不明? 物騒すぎ」
黒田が驚いている。
「それに試験が難しくなるって、なにそれ。だいいち、実際に生徒が行方不明になったら、新聞ざたじゃないか。そんな話聞いてないぞ」
「ううん、うちのお姉ちゃんのクラスで、ついこの前、行方不明者が出たんだって」
長良頼子が言うと、え、まさか、ほんと? やばい、マジ? いくつもの声が重なった。
「誰が行方不明になったの?」
「それが、行方不明になった子のことを、誰もはっきりとは覚えてないんだって」
「なにそれ。SF?」
「怪談じゃん、まさに」
「芦中は、ちゃんとそのこと把握してるの?」
「車の謎関係で手いっぱいで、だめなんじゃない」
昼休みが終わるまでは、行方不明の話でもちきりだったが、午後の授業がしまいになるころには、すでに話は下火になっていた。
高校生とは、飽きやすきもの
と、その日の日記にぼくは書きこむ。きみも高校生なんだよ、と、水沢看護師には笑われたけれど。
丹羽ハルカは、行方不明者として処理されたみたいですよ、と言い返すと、水沢看護師は、首を横にふった。
「ちがうでしょ。みんなの記憶には残ってないんだから、行方不明もなにも、ないでしょ」
ほんとうに、誰かを記憶に残らなくさせることなんて、できるんですか。ぼくは訊ねた。
「できないわよ、普通は。でも、きみはそういう特別な存在みたいよ」
そうなのだろうか。ぼくは、そんなにも特別な者なのだろうか。それでは、世界を支配したい、だのと願ったなら、かなうのだろうか。
「むり。それ、きみの手に余るわよ」
しばらくの間、世界の帝王になった自分について、静かに考えてみた。なるほど、たしかにそれは、ぼくの手に余りそうである。
* * *