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#4 片桐はいりさん興奮!「江戸川区のインド」でインド映画を満喫する

新型コロナウイルスの感染拡大で、存続の危機に瀕している映画館。そんな今だからこそ読みたいのが、俳優、片桐はいりさんの『もぎりよ今夜も有難う』です。映画館が活況だったころの懐かしい思い出、銀座の映画館でもぎりのアルバイトをしていた7年間、旅先の映画館での温かいエピソードなど、映画館にまつわるあれこれをユーモアあふれる筆致でつづった名エッセイ。その中から、読めば映画館に行きたくなるエピソードをお届けします。

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忙しい夏のささやかな楽しみ

今年の夏もまたパスポートの出番がなかった。子どもの時分に、夏には「夏休み!」という夢と冒険の記憶がすりこまれているもんだから、この季節になるとことさら遊びに出たくなる。かっきりお休みをいただいて、遠出がしたくてたまらなくなる。

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パスポートを使うには、最低でも続けて三日の休みはほしい。ところがこの夏のスケジュールときたら、二日続きの休みさえままならないのだ。その上に、仕事がらみで読まなければならない資料や本が、目の前に三十センチも積み上げられている。肝心の夏休みがないのに、宿題だけはてんこ盛り、という状態だ。

このおそろしくわり食った状況を、なんとか逆転できまいか。わたしは鼻の下に汗ためながら考えた。そして、それはナイスなプランを思いついたのだ。書を持って、町へ出よう!

品川から京浜急行に飛び乗って、三浦半島へ。適当な駅で降りて適当なバスに乗り、海っぺりの道を一時間ほど歩いては、一時間ほど本を読む。風のよく通る海の家やドライブ・インで。テラスのある喫茶店で。波打ちぎわの岩場では、活字に熱中するあまり、背中からざっぷんと大波をかぶった。爽快な一日読書旅だった。

ある日は羽田空港へ。第2ターミナルの展望デッキは、テーブルとベンチがたくさん並んでいて、何時間でも無料で過ごせる。よく見ると、日かげの席にはわたしと同じ志の人が何人も、荷物は持たず文庫だけ手にして、それぞれ本の世界に旅行中だ。

空港は心も飛び立つ場所らしい。ここに来るだけで、気持ちがどこかへ離陸しはじめる。わたしも分厚い小説にことのほかひきこまれ、気がついたら日が暮れていた。家からバスで三十分の場所なのに、ずいぶん遠くへでかけたような気がした。

宿題が上々のレジャーに化けて、一日ずつの夏休みもとんとんに盛り上がって来たころ、もうひとつ、別方向から旅のお誘いが来た。

「はいりさん、西葛西にインドの人たちがたくさん住んでる所があるらしいですよ」

その日わたしたちは、仕事終わりに表参道の静かなカフェでたそがれているところだった。以前にもやはり彼女の、「群馬の大泉という所に、ブラジルの人たちがたくさん住んでる町があるらしいですよ」という耳打ちから、一日北関東ブラジル旅をしたことがあるのだ。わたしたちは急遽地下鉄に乗りこんで、東京の東端、江戸川区のインドをめざした。

最高のインド旅を体験

西葛西の清新町の団地には、インドのIT技術者たちがたくさん住んでいる。彼らの多くはインドのシリコンバレー、バンガロールを中心に南インドから来た人たちだそうだ。ニューヨークやシンガポールのインド人街のような町並みはもちろんないけれど、よおく探せば南北のインド料理や食材店が発掘できる。

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偶然わたしたちが入ったのは、江戸川インド人会の会長さんのお店だった。そして、そのレジで見つけたのが、「インド映画二大作! 特別レイトショー!」の割引券だったのだ

さすがインド人が集まる場所にはインド映画館ありか!? 先走って見ると、劇場は、船堀シネパル。館名も、地名すらも初耳である。同じく江戸川区内のご近所らしい。通常は東宝配給の作品を上映しているようだけど、八月のひと月、二館のうち一館は夜の回が全部インド映画になっている。変わったプログラムだ。

どっちの映画がおもしろい? 店長のマヌさんにたずねたら片方を指差して「シャー・ルク・カーンね! なんたって、シャー・ルク・カーンだからね!」聞いたこともない名前を二度言った。案の定、わたしたちは次の週、劇場も映画の題名も主演スタアの名前も初耳づくしのレイトショーにくりだすことになった。

だしぬけに駅前にそそりたつ船堀タワー。その地下に映画館があるという。大小のホールに結婚式場や会議室、タワーの上には展望台まで備えた巨大な空間はたまげたことに区の施設だそうだ。公設民営の映画館なんて地方でなら聞いたことがあるけれど、東京二十三区に区立の映画館があったとは、これも初耳。江戸川区、謎がわく。

公立然としたピロティからエスカレーターを降りると、いきなり小ぶりのシネコンが現れた。売店も充実していて、番組にあわせてレトルトのインドカリーなども販売中だ。めったにお目にかかれない南インドの豆やドライフルーツのカリーを買いあさり、ついでに温かいサモサとマサラチャイも手に入れて、わたしたちは二時間四十八分のインド映画に突入した

どの人がシャーやらルクやらもわからぬ状態から観はじめて、どんでんに継ぐどんでん、絢爛の舞い踊りに巻き込まれ、づんづくづんづく、ひとりでに首が動き出し、終わるころにはわたしはすっかり自分が江戸川区にいることを忘れていた。

ああ、最高のインド旅! 久しぶりの映画館トリップに喜色満面、ほてり顔でロビーにいると、いつの間にかわたしたちのまわりに興奮の輪ができていた。インド人のご夫妻と、インド舞踊を研究している女性たち、それから、どうやらこの企画を持ち込まれたらしいインド人会の会長さんご一家も加わって、しばし幸せなインド映画談議となる。

「今日の『DON・過去を消された男』は三年前の映画ですけれど、これからは新作もやっていきますよ!」会長さんの勇ましい宣言で輪はますます盛り上がり、わたしはインド舞踊の女性たちから、インド映画の入門本やら、“キング・オブ・ボリウッド”シャー・ルク・カーンのDVDなどをいただいて、ほくほくのうちに大田区へ帰った。地下鉄を乗り継いで。パスポートも使わずに。


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