映画「ベネチアの亡霊」:ブラナーのポワロ

先日、映画「ベネチアの亡霊」を見た。この映画は、ご存じのとおり、ケネス・ブラナーがポワロを演じた三作目。そのこともあって、映画の内容そのものというよりも、「ポワロ」に焦点を当てて感想を書き連ねてみたい。
なお、その意味では、今回はストーリーには触れていないので、ネタバレはナシです!


ポワロが好き

私は結構、ポワロもの(小説も映画も)が好きで、かつては(学生時代、もう何十年前!)文庫を読みあさったものである。
ポワロ・シリーズだけでなくマープルもの、さらにはノンシリーズもかなり読んでいて、クリスティものが好きなんだよね。

アガサ・クリスティの文章って、いわゆる文学的な文章とは言えないんだろうけど(類型的という評もあるらしい)、簡潔で、余計なことは言わず、それでも最低限必要な描写と方向性は提示されているから、読んでいると、極めて明確なビジョンを描くことができる。また、書き込んでいるわけでもないから想像力をかき立てる余地もたっぷりあって、楽しめるんだよね~~。
とはいえ、マニアと言えるほどではないし、この程度でファンと言ったらファンから怒られるって程度だけどね。

でも、クリスティの作品が映像化されるというと、ラストが分かっていても(じつは忘れているものも多いんだけど)、今でもついつい見てしまう。

中でも、スーシェがポワロを演じたTVシリーズは、お気に入り!
スーシェが小説を読み込んでポワロになり切ったと言われれているように、原作のイメージにかなり近く、はまり役だったし、全体的に丁寧で軽妙な味付けに好感が持てた。シリーズが進むにつれ定番化されていったキャラたちの掛け合いも、大好きだった。
このシリーズは、日本でも再放送が繰り返されたこともあって、私にとってのポワロ・イメージは、むしろこのシリーズによって、小説以上に決定づけられているかもしれない。

で、今回も「ベネチアの亡霊」を、ポワロ物の一つとして、それほど期待しないまでも、ある程度は期待しつつ、見てしまった(?!)というわけである。

概要と第一の感想

概要は以下のとおり(配給会社による公式HPより)

ベネチアで隠遁生活を過ごしていたポアロは、霊媒師のトリックを見破るために、子供の亡霊が出るという謎めいた屋敷での降霊会に参加する。しかし、その招待客が、人間には不可能と思われる方法で殺害され、ポアロ自身も命を狙われることに…。はたしてこの殺人事件の真犯人は!?世界一の名探偵ポアロが超常現象の謎に挑む、水上の都市ベネチアを舞台にした迷宮ミステリーが幕を開ける。

名探偵ポアロ:ベネチアの亡霊|映画/ブルーレイ・デジタル配信|20世紀スタジオ公式 (20thcenturystudios.jp)

で、まず第一の感想は、フツーだけど、ちょっと残念なところもあったかな。

実はこの映画、原作は『ハロウィン・パーティ』だが、かなり脚色されており、いわばオリジナルなストーリー部分が非常に多いのだそうだ。
たとえば舞台はイギリスの田舎町からベネチアに変更され、登場人物それぞれの役周りもかなり変わっているとのこと。

ただ私は、原作については全く覚えておらず(読んでいないかも・・・)、その意味では、最初から原作との違いはあまりに気にせず、ポワロの映画を楽しもうという姿勢で鑑賞した。

ただし、話のスケールが思っていた以上に小さかったということもあって、逆にポワロが悪目立ちをしてしまって、イマイチ乗れなかったのが、最大の理由だったかもしれない。
もちろん話のスケールが小さいこと自体は問題ない。しかし、であれば、丁寧なキャラ作りや話し運びなどがほしかったのだけど‥‥。全体的にちょっと雑だった気がした。

そのせいか、じつは私、かなり最初から、犯人が誰か、想像がついてしまったんだよねぇ。
推理物の映画って、見ながら犯人捜しをするのが(少なくとも私にとっては)最大の醍醐味である。
今回も、怪しい人物をあーでもないこーでもないと推測しながら楽しみたいと思っていたのに、なぜか、たぶんその人じゃないかなぁ~~と、最初からずっと思っていたら、やはりそうだったという結末だった。ちょっと残念。
しかも、映画を見ながら、ついついその人が犯人であることの根拠を探そうと思って頭をめぐらしてしまったため、映画の世界にどっぷりと浸ることができなかった。

推理物というよりもポワロの物語

ところで、この映画の邦題は「ベネチアの亡霊」ではなく、「名探偵ポワロ ベネチアの亡霊」である。つまり、推理物というよりも、ポワロの映画なのである。
もっとも、原題は「A Haunting in Venice」 で、ポワロという文字がついていないことを考えると、これは、日本向けのタイトルであり、そこに映画制作の側の意図を見いだすのは、ナンセンスだろう。
しかし、この映画はやはり、まず第一にポワロを主人公とした、ポワロについての映画であると言った方が良いような気がした。

ポワロは探偵だから、推理物において彼が主人公となることは、何らおかしいことではない。その探偵が、魅力的で、特徴のある人物であれば、なおさらだ。
しかし、映画全体の中心軸は、推理にあるべきであり、そうであれば、その事件に関わる登場人物が、探偵と同じくらい魅力的であるべきだろうと、ポワロも好きだけど何よりも彼の推理力が好きな私は思ったわけである。

でも今回は、どうも登場人物がみな小ぶりだったというか、厚みがなかったというか、魅力がなかったというか・・・ともかく印象的な人物がいなかった。たしかに、霊媒師とか女性作家とか、設定が面白そうなキャラはいたのに・・・残念。
よって、相対的にポワロが目立ってしまったというわけだ。

やっぱ、探偵物は犯人やその背景が魅力的でないと、探偵だってその魅力が生きてこないんじゃないかな。

ケネス・ブラナーのポワロ

ところで、この映画のポワロは、ご存じのとおり、ケネス・ブラナー。
この作品は、彼のポワロ物の三作目だ。

スーシェはTVシリーズだが、映画版と言ったら、これまでは「オリエント急行殺人事件」のアルバート・フィーニーや、ピーター・ユスティノフが有名かもしれない。
ただし、それは30~40年ほど前の作品だから、今や映画でポワロと言えば、ブラナーで、ブラナーのポワロへの入れ込みはとっても強いようにも見える。

とはいえ、ブラナーのポワロって、よく知られているように、スーシェのそれはもとより、原作とも大きく違っている。
原作では、ポワロは小男だし、トレードマークの口髭もブラナー版のように太目で立派なものというより、細目のくるっと上にまがった形だし、おなかも出ている。
スーシェのポワロはまさにそうした特徴を再現しているのだが、ケネスブラナーのポワロの風貌は、威風堂々!
ブラナーは、シェクスピア役者だが、なんだか、その延長線上にも見える。

もちろん解釈はそれぞれだし、新たな翻案があってもおかしくないし、逆に、そこに新しい発見があることもあるだろうし、それが作品を見る楽しみでもある。
よって、私のイメージとは違う!と言ってごねるのは、ファン(?)というか読者のエゴに過ぎないとも言える。

でも、これって、本当にポワロなの?という違和感が、三作目の今回も、私にはどうしても拭えなかった。
というわけで、最後にその「愚痴」についても若干加えておく。

異邦人としてのポワロという設定

私の違和感の出所をつらつら考えていくと、ポワロがベルギーからの亡命者であるという設定を、どのように捉えているのか、という点にあるのかもしれない。

私は、このいわば「異邦人」としての設定こそ、ポワロの人間としての洞察力の深さと共に、それを日常的なコミュニケーションにおいても一種の武器に使うような彼のクレバーさにつながっており(もちろん、それが捜査にも生かされる)、そして、そのことが彼の皮肉さを含めたチャーミングな魅力でもあるような気がしていたんだよねぇ。

それは、ある意味、常に周縁に身を置いている「異邦人」の強みでもある。
もちろん「異邦人」は様々な困難や差別を抱えている。しかしそれゆえ、主流側の思い込みを排して合理的/客観的に物事を見極め、真実にたどりつく能力をもちうる存在として(物語世界の中で)設定することができる。(もちろん、こうした見方もステレオタイプ的だが)

たしかにポワロの能力は、作品の中では、そうした彼の社会的な位置から生まれた能力ではなく、「灰色の脳細胞」という、あくまでも個人の能力として書かれている。
でも、そこには、やはり彼のそうした社会的な背景があり、そうした背景を加えることによって、彼が殺人事件という、人が人を殺す事件を解明するとき、ただ殺人トリックを明らかにするだけでなく、社会的問題というか人間的な問題として解決することができているような気がして、そうした味付けがポワロ作品の特徴になっているように思うんだよね。
つまりクリスティは、ポワロをイギリス人ではなく、こうした異邦人的な設定にすることによって、殺人事件をとおして、それを織りなす社会や人間関係を皮肉に見透かしているような気がして、少なくとも私には、そこがポワロ物の魅力だと思われる。
(ちなみにこの点が、シャーロック・ホームズとはかなり違うんじゃないかな。ホームズ物は、やはりトリック解明が中心になっているような気がして(でもキチンと読んでいるわけでないので間違っているかも)、イマイチ個人的には乗り切れないんだよね。)

ブラナーはなぜポワロを演じたのかな・・・

ともかく、亡命ベルギー人(しかもベルギーという小国であることも重要!)という設定は、ポワロ物にとってはかなり根幹に関わる要素だと私は思うんだけど、ブラナーのポワロにはその点があまり見えない。
たしかにブラナーのポワロも英語を間違えたりするけど、風貌や振る舞いは紳士的なアングロサクソン系に見える。(あくまでも私には、だけど)

もちろん、亡命ベルギー人であるという設定をステレオタイプ的に表現することは避けたのかもしれない。それも一つの見識である。
でも、あまりにも見えなくするのは、どうなのだろう?

また、ブラナー自身は、アイリッシュであるという自意識が高い俳優の一人だとも聞いている。
そういう意味では、イギリスにおいてベルギー人であるポワロを演ずることと、イギリスにおいてアイリッシュである自分の位置を重ね合わせての選択なのかもしれないが、どうなのだろう?そもそも、両者はともに「よそ者」かもしれないけど、そのよそ者の構造的な性格は全く違うし・・・

では、ブラナーは、このポワロの造形を通して、どんなポワロ像を提示しようとしたのだろうか。
そして、そもそもブラナーはなぜ、ポワロを演じようとしたのだろうか。

ブラナーは、三作とも主演だけでなく監督だし、制作も行っている。
そのことも考えあわせると、プラナーはポワロを演ずることを、単なる娯楽大作としてではなく、かなりの個人的な思い入れを込めて行っているような気がする。

つまり、その意味でもこの映画は、ポワロの探偵推理の物語ではなく、ブラナーが意図して作り上げたポワロという個人の物語だったとも言えるのであり、だから、すでに述べたように、周囲の(犯人を含めた)役者よりもポワロの物語に焦点が置かれていたのかもしれない。ポワロは悪目立ちしていたのではなく、当然というか意図どおりだったとも言える。実際、この「ベネチアの亡霊」では、その背後にポワロの再生というテーマも大きく関わっている。

もっとも私は、そうした制作意図などに関わる情報や知識を持っておらず、以上は勝手な想像なので、さらなる言いたい放題はやめておく。
でも、ブラナーのポワロ物って、そうしたことまでも鑑賞者に考えさせてしまうほど、単なる違和感以上のものがあるんだよね。
むしろ、副題に「ケネスブラナーのポワロ」とあったほうが見やすかったかも。私はブラナーは嫌いじゃないので、そうした視点からもう一度見直すと、また新しい発見ができるかもしれないと思う。

今回は、ともかくポワロの推理物として見始めてしまったが故に、違和感のノイズに悩まされてしまったというのが、最も正しい感想だろう。
それに、もう一言加えると、ベネチアの雰囲気など、映画としては良かったですよ!

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