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CANCER QUEEN ステージⅡ 第5話 「5年生存率」


 


    夕べ、キングは寝つきが悪かった。そのうえ、夜中に寝返りを打った拍子に、背中にズキンと痛みが走って、それからずっと眠れなかった。朝起きて、いつものように血圧を測ると、160に跳ね上がっていた。
    キングは傷口が開いたのかもしれないと心配になり、朝一番に電話を入れ、その足で病院に向かった。
    まだ松の内だというのに、病院は人でごった返していた。彼は予約外なので相当待たされるだろうと覚悟していたけれど、レントゲン写真を撮ったあと、意外に早く診察室に呼ばれた。
    ひょっとして、急患扱いにしてくれたのかしら。粋な計らいね。

「傷口も綺麗ですし、レントゲンにも異常がないので、心配ないと思います」

    ドクター・ジャックが背中の手術跡を診てから言った。
    それを聞いてキングは安心したのか、背中の痛みがうそのように消えてしまった。
    お医者さんに診てもらっただけで痛みが消えるなんて、なんだか子どもみたいね。

 ところが、ドクター・ジャックはそのあと、彼を不安のどん底に突き落としたの。

「私が急かしたせいか、病理検査の結果が今日出ました」

 ドクター・ジャックは淡々と話を続けた。

「じつは、腺がんのほかに、大細胞神経内分泌がんという新たながんが見つかりました。むしろ、こっちのほうがメインでした。それがリンパ節にも転移していたのですが、手術でそこも切除したので、がんは完全に取り切ってあると思います」

 やっぱりわたしは、大細胞なんたらかんたらがんという名前だったのね。わたしの記憶に間違いはなかったわ。でも、というと、わたしの体は腺がんと大細胞がんという2種類の細胞でできているの?  それとも、わたしには姉妹がいるのかしら?

    キングも状況がよく飲み込めなかったみたい。

「その大細胞がんというのは、どういうがんなのですか?」

「腺がんに比べるとごく稀で、肺がんの中でも数パーセントしかない非常に珍しいがんです。がんの顔つきというか、悪性度は腺がん以上に悪いと言えます」

「それがリンパ節に転移していたということですか?」

「はい」

「ということは、抗がん剤治療が必要だと?」

「そうですね。リンパ節に転移していたので、やはり予防的に抗がん剤治療はしたほうがいいと思います。大細胞がんはここ10年くらいでわかった比較的新しいがんなので、まだ使える抗がん剤は少ないのですが、性質は小細胞がんという種類のがんと似ているため、そちらの薬が使えると思います」

 キングもようやく事の重大性を認識したようだわ。小細胞がんは転移しやすく、進行も早い、非常に性質の悪いがんだと言われている。大細胞がんがそれと似ているなんて、わたしはそんなに性悪なのかしら。心外だわ。

「その大細胞がんには、まだ分子標的薬はないのですか?」

「いえ、ありません」

 この一言で、キングは絶望のふちに突き落とされた。お嬢さまがそれなら許容できると言っていた分子標的薬という希望の光が、一瞬にして消えてしまった。

 そうなんだ、分子標的薬はわたしには使えないんだ。彼には申し訳ないけれど、なんだかほっとしちゃった。

「じつは、抗がん剤治療には娘が反対していまして、副作用の割には効果が薄いのではないかと心配しています。治療をする場合としない場合とでは、延命率にどの程度の差があるのでしょうか」

 キングはいきなり核心をつく質問をした。

「まだ大細胞がんだけのデータはないのですが、大細胞がんが属する非小細胞がんという種類全体で考えると、延命率は15パーセント程度上がります」

 15パーセントは高いのか低いのか、なんだか難しくてよくわからないわ。

    ドクター・ジャックはキングの不安を察したかのように、めずらしく優しい口調でこう言った。

「今ここでお決めにならなくても結構です。次回の診察までに、もっとデータも調べておきます。内科の医師とも再度相談しておきます。次回は、お嬢さんもいっしょにお話しできたらと思います」

 今日は傷口の痛みが心配で病院に来たのに、思いもよらず病理検査の結果を聞かされ、腺がんよりもっと悪性のがんが見つかったと言われて、キングは相当混乱しているようね。抗がん剤治療を受けるかどうか、これまでの前提が根底から覆されてしまったわ。

    帰宅してから、不安にかられてインターネットで検索した内容は、さらに絶望的だった。

『肺がん全体における大細胞がんの占める割合は、約7%程度にとどまり、発症リスクや発生のメカニズムについて、まだ判明していない部分の多いものとなっています』

 ここまでは、ドクター・ジャックの説明のとおりね。キングを絶望のふちに突き落としたのは、このあとの文章だった。

『大細胞神経内分泌癌の特徴は悪性度の高さです。成長、増殖スピードも速く、転移・再発も起こりやすく、発見時には治療が行えないケースも少なくありません。医療の進歩により生存期間、生存率は上がっていますが、それでも助かる見込みが低い危険な癌と言えるでしょう』

 これでは、ドクター・ジャックが抗がん剤治療を熱心に勧めるのも当然だわね。なにもしないで、免疫力に任せるなどと悠長な事を言っている場合ではないわ。

    ドクター・ジャックから話を聞いたとき、キングは動揺のあまり、がんのステージがいくつなのか、肝心なことを聞き忘れた。

    病理検査の結果、縦隔への浸潤がなければステージは1、浸潤があれば3になると説明されていたけれど、リンパ節への転移はどうなのかしら。もし、縦隔へも浸潤していたとするとステージは3で、5年生存率は25パーセントよね。
    ということは、これから5年を生き延びる確率は4人に1人。わたしはかなり性悪のようだから、確率はもっと低くなるのよね。
    なんということかしら。わたしはまさにキングの命を蝕む悪魔ね。あと5年も生きられないかもしれないなんて、ひどすぎる。

 キングが奥さまとお嬢さまに病理検査の結果を伝えると、奥さまは電話口で、

「なぜ私だけこんな目に遭うの」

 と深い溜息をついた。いつもは陽気な奥さまだけれど、さすがに今度ばかりはショックを隠せなかった。

    奥さまは、最近、認知症が進んでいる実家のお父さまをグループホームに預ける目処がついて、ようやくほっとしたところなのに、今度は、夫が助かる見込みがないかもしれないなんて、残酷すぎるわ。
    キングは奥さまに返す言葉が見つからなかった。

 お嬢さまからはすぐに、

「抗がん剤治療には絶対反対!」

    というメールが届いた。

    今日は、奥さまとお嬢さまもいっしょに、あらためてドクター・ジャックの話を訊く日ね。
    いよいよ、最後の審判の日がきたわ。きっとわたしは地獄に落とされるのね。でも、キングさえ無事でいれば、わたしはどうなってもかまわない。抗がん剤治療でもなんでもござれ!

    ドクター・ジャックはいつもと違って、緊張した面持ちでパソコンの画面をじっと見つめていた。それからお嬢さまのほうを向いて、おもむろに説明を始めた。お嬢さまは一言も漏らすまいと、真剣な表情で聴いている。

「がんは、大細胞神経内分泌がんが7割、腺がんが3割で、大細胞がんがメインです。それが縦郭リンパ節にも1個、転移しているのが見つかりました。それも含めて手術で全て取り切っています。ステージは3Aです」

 やっぱり、ステージは3だったのね。予期していたとはいえ、キングはあらためて覚悟を決めようとするかのように質問した。

「その転移は、リンパ節の何番目にあったのですか。それ以外はなかったのですか?」

 キングはここに来る前に、友だちの奥さまの内科医からアドバイスをもらっていた。 
    その先生は、
「私は肺がんには詳しくないけど、胃がんの場合は、リンパ節の何番まで転移があったのか、それ以降にはないのかを調べるわ。リンパ節も含めて、手術で完全にがんが取り切れているなら、抗がん剤治療は必要ないかもしれないわね」
    と、言っていたの。

 キングの質問に、ドクター・ジャックは、

「5番目です。見つかったのはそこだけでした」

 と、簡潔に答えた。
    手術の前にわたしの体が分かれて、1個だけそんなところにいたのね。でも、それも切り取られてしまったんだわ。1個だけならたいしたことはなさそうだけれど、それでもステージは3なのかしら。

    キングが重ねて質問した。

「以前、ステージは縦郭への浸潤があるかどうかで決まると言われましたが、浸潤はあったのでしょうか」

「いえ、ありませんでした」

「それでも、ステージは3なのですね」

「はい、リンパ節に転移していましたので」

 ドクター・ジャックの表情は、硬いままだった。

「そうすると、やはり抗がん剤治療を受けたほうがいいと?」

「そうです。リンパ節に転移していた場合は、ほかにもがんがいる可能性を否定できません」

 そうよね。だから、わたしはまだ生きているの。さすがドクター・ジャックは、全てお見通しね。こうなったらもう、わたしはどこへも逃げも隠れもいたしません。

 すると、それまでじっと2人のやり取りを聴いていたお嬢さまが、ここで口を開いた。

「もし先生が同じ状況でしたら、抗がん剤治療を受けますか?」

 ズバリ一言。キングも同じ質問をしようと思っていたのに、先を越されちゃったわね。

「もちろん受けます。じつは私の父もがんですが、抗がん剤治療を受けないと言ったら怒ります」

 ドクター・ジャックはきっぱりと言った。
    この一言で、キングの気持ちは治療を受けるほうに傾きかけたけれど、そこで踏みとどまって、もう一つ訊ねた。

「1998年に、厚生省の研究班が、手術後の抗がん剤使用について、延命効果、生活の質の向上効果はないと認めていますよね」

「そうですか」

 ドクター・ジャックは怪訝な顔をした。キングは意外に思ったが、それ以上深入りはしなかった。1998年といえば20年近くも前のことになる。その後のがん治療の進歩を考えると、この質問は適切ではなかったかもしれないと思ったようだ。

「前回、先生からは、抗がん剤治療をした場合、5年生存率が15パーセント上がるというお話を伺いましたが、それは抗がん剤治療を受けたグループと受けなかったグループに分けて統計を取っているんですよね」

「そうです。グループ分けをした統計です。ただ、前回お話したように、大細胞がんだけの統計はありません。それを含んだ非小細胞肺がん全体の数値です」 

 非小細胞肺がんのステージ3の5年生存率は25パーセント。抗がん剤治療を受ければ15パーセントアップするなら、生存率は40パーセントになる。それでも生き残る確率はまだ半分以下だけれど、キングには魅力的な数字に思えたはずよ。もっとも、あくまで統計的な数値だし、大細胞肺がんだけの数値はないというから、キングにも当てはまるのかどうかは、結局、やってみないとわからないのよね。

    奥さまは心配そうな顔で、黙って話を聞いている。お嬢さまは厳しい表情のまま。キングはまだ迷っているみたい。

    すると、ドクター・ジャックが、

「じゃあ、抗がん剤治療は止めますか?」 

 と言ったの。これには、キングのほうが驚いたわ。 

「次の患者さんもいるので、このあともう一度お話しましょう」

 ドクター・ジャックは、質問ばかりしていっこうに結論を出さないキングに嫌気がさしたのかしら。それともほんとうに、次の患者さんが待っているのかな。

    キングは一呼吸置くことができて、ほっとした様子で言った。

「そうですね。そのときまでには結論を出します」

 再開は午後2時となった。外に出て昼食を取る時間はなかったので、病院内の食堂で済ませることにした。みんな食欲がなく、結局、3人とも同じそば定食を注文した。狭い食堂のなかでも、比較的落ち着いて話ができそうな窓際のテーブルに座ると、キングが口火を切った。

「さて、どうしたらいいかな?」

「どちらでもいいよ」 

 奥さまが彼の目を見ながら答えた。いつもの穏やかな表情に戻っている。

「反対だけど、パパがやりたいなら仕方ない。でも、1回だけにして」

 と、お嬢さまは諦めたように言った。それを聞いてキングは、

「パパの性分から言って、何もしないで後悔するよりは、できることはやって、それでも結果がだめなら諦める。だから、1回はやるよ」

    と、言ったの。奥さまとお嬢さまは、黙ってうなずいたわ。
    食事が終わると、お嬢さまは用事があるからと言って先に帰った。

    賽は投げられた! いよいよ抗がん剤治療が始まるのね。キングの勇気ある決断に、心から敬意を表します。
    わたしはとっくに覚悟ができているわ。キングのためなら、こんな命の1つや2つ、100でも200でも、いくらだってあげちゃうわ。
    え、1つで十分だって? 
    そうよね。わたしみたいながん細胞がそんなにたくさんいたら迷惑よね。今のところ彼の血液の中を泳いでいるのは、どうやらわたし一人みたいだから、抗がん剤に攻撃されたらいちころね。
    でも、わたしの体の7割が大細胞がんで、残りの3割が腺がんだということが、ちょっと気になるわ。いったいわたしは何者なの? そんな、いかにも怪しげで性悪なわたしに、従来の薬がはたして効くのかしら?

   まあ、いいか。心配しても始まらない。
    なるようになれ!
    ケ・セラ・セラ!
    Whatever will be, will be!


(つづく)

前回はこちら。
第4話「選択」

次回はこちら。
第6話 「血栓」


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