映画「ベネデッタ」レビュー


先日初めてnoteに登録し、何を書こうかと思案していたのですが、たまたま見た映画が結構刺激的でしたので、その映画についてのレビューを書いてみようかと思います。映画のタイトルは「ベネデッタ~わたしは告白する」、ポール・ヴァーホーベン監督作品です。同氏の作品としては「エルELLE」を見たことがあり、かなり人間のダークな部分を掘り下げる監督なのだなと感じたことを覚えています。「ベネデッタ」もその路線から外れることなく、期待通りのダークな映画でした。
 
原作をネットで調べると「ルネサンス修道女物語~聖と性のミクロストリア(1988)」という書籍がそれであることが分かるのですが、古本市場では1万円以上の値がついていて、気軽に読める本ではないようです。もちろん図書館に行けば借りられるのでしょうけれど…。
 
同性愛という内容だけに、この映画のレビューを1回目の投稿にするのを少し躊躇しましたが、いろいろと思うところもあり、記憶が鮮明なうちに書いてみることにしました。物語の内容にも若干踏み込みますが、まだご覧になっていない方もいらっしゃると思いますので、ほどほどにしておきます。
 
さて物語についてです。この作品はルネサンス期の裁判記録を元に先の「ルネサンス修道女物語」が著わされていて、その原作を元に監督が映画化しているということのようです。
 
原作を読んでいないので、どこが事実でどこが創作なのかを判別するのは困難なのですが、おそらくこの修道女が幻覚かは分かりませんが、神がかり的な言動(奇跡事案)から教会上層部の信任を得て修道院長になり、この村がペストによる被害から逃れることができた、ということは事実なのでしょう。
 
また裁判記録があることから、同性愛という宗教上の罪によって裁かれ、生涯にわたってその罪を問われ続けてきたことも真実のようです。本来なら彼女はその罪によって処刑されるはずだったのでしょうが、映画のエンドロールからも分かるように、独房のようなところで人生を過ごし、しかし時折みんなと一緒に食事をしたなどということが語られています。少なくとも、人生を全うしたということなのだと思います。
 
私はキリスト教の信者ではありませんので、この映画が神を冒涜しているとは感じませんが、映画紹介のサイトなどではカンヌ映画祭で物議をかもしたなどと書かれています。確かに修道院の中で起こった物語であるという点からも、同性愛がその当時異端の象徴であったことぐらいは何となく分かります。現在でもLGBTの問題に関して、政府要職の者から「気持ち悪い」などと差別的な発言があったことは記憶に新しいところです。
 
自然科学的に言うと、生命はある一定の割合で、突然変異を起こすことが知られています。考えてみれば当たり前のことで、すべての子孫が100%同じ性質を持って生まれてくれば、ある一定の現象に対して同じ行動を起こすでしょう。つまりある危機に対して同じ行動をとることで、全滅してしまう可能性があるのです。
 
しかし数%でも違う性質を持つことで、全体とは異なる行動が期待されます。その結果、一部の子孫が生き残る可能性が高まるという訳です。進化した生命体ほど、その性質が強く表れてくるのは容易に想像できるでしょう。人間という種は、身体機能的な系統とは別に感情を大きく発達させました。同じような感じ方をする集団がある一方、全く違う感じ方をする集団もまた存在する訳です。人間はそうやって種の継承を維持してきたということなのでしょう。
 
そう考えると、修道院での生活は極めて非人間的で、非人道的であると言わなければなりません。信仰という名のもとに純粋培養されることで、同一の考え以外を許さない世界が、そこには出現することになるのです。例えば「カルメル会修道女の対話」というオペラの中では、殉教の道を選んだ16人の修道女の物語が史実を元に描かれています。ストイックな生き方を志向するあまりに殉教するというストーリーが、今まであまた語られていることはみなさんご存じのとおりです。
 
 
ところで、西洋の思想を理解するためにはキリスト教について理解を深める必要があると思います。私たちの神道と同じように、ヨーロッパ人の生活様式を最も根源的に規定していると考えられるからです。そういった思いから、通信制大学で旧約聖書と新約聖書についての授業というものを履修したことがあります。
 
講師はフランスの大学で神学の博士課程を修了された神学博士の先生で、とても面白かったのを記憶しております。先生の話では、新約聖書はイエスが亡くなった50年後に“人間”によって書かれたのであって、イエスの言葉を正確に記しているわけではない、というものだったと思います。つまり、書いた人間の都合によってゆがめられているということなのでしょう。
 
イエスは生前「神を想い、日常生活の中で祈りをささげることで、その想いは神に届く」と説教していて、決して教会を作れ、寄付を募って修道院を作れなどとは一言も言っていないのだそうです。むしろ弟子たちが寄付を募り集団生活(教会のはしり)をしようとした時「お前たちは何も分かっていない」と言って叱ったほどで、非日常の生活を戒めたそうです。
 
教会や修道院を運営するためにはお金がかかり、利害関係が生まれることをイエスはその時すでに指摘しているという訳です。イエスは、当たり前の日常の中でこそ、祈りの意味があると考えていたのでしょう。結局のところ、先生の話の要点はこうだったと思います。つまり、かつては重要な考えであったかもしれませんが、現代社会の中では「キリスト教の役目は終わった」ということのようです。
 
先生の話はとても面白く、その後ある教会で先生の講義が行われるという情報を得て、2時間ほどのお話しを聴きに行ったこともあります。キリスト教会でのお話でしたので集まってきたのはほとんど信者のようでした。先にもお話したように教義を否定するような内容でしたので、最後には信者の方から大変な非難が浴びせられていました。
 
「神学博士なのだから信者ではないのですか?」という信者の問いに対して、「今までの話を聞けば分かりますでしょ」とのみお答えになっていました。先生は神学博士という立場ではありますが、心底キリスト教を否定なさっていることが伝わってきたことをよく覚えています。
 
さて、かなり脱線してしまったので話を映画に戻します。監督はルネサンス期の修道院での生活を丹念に描きながらも、ベネデッタという修道女を特別な存在として表現していきます。特に奇跡体験によって恍惚状態となったベネデッタが叫ぶシーンでは、ベネデッタの口の動きに合わせて男性の声を当てるなど神秘的な表現を選んでいます。奇跡を強調したといえるでしょう。
 
同時に、年頃の女として欲情に身を任せるような場面も強調されています。生身の人間として、生々しい性への欲動も余すところなく伝えようとしているかのようです。計算高いのか、自発的なのか分かりませんが、一視聴者としてはベネデッタの本心を知ることはできません。映画の最後に、愛人であるバルトロメアがベネデッタの本心を尋ねる場面があるのですが、そこでもあえて、ベネデッタは本心を語ることはありません。彼女の心の内は永遠に闇の中ということなのでしょう。
 
ただ監督の表現がベネデッタに対して肯定的であることが何よりの救いとなっています。自分らしく生きるために、ベネデッタは精一杯の努力を重ねてきました。それは間違いのない事実だと思います。結果として異端の罪びととなってしまいましたが、同時にペストから町を守ったという事実も見逃すことはできません。
 
別の時代に生まれていたなら、どのような評価が成されていたのでしょうか。現代医学によって、奇跡体験は統合失調症という診断を得ることになるのかもしれませんし、同性愛も、もう少し先の世界に生まれていたのなら、隠す必要のない当然の権利となっていたかもしれません。
 
どう生きることが正しく、何が異端なのか…、
 
少なくとも現代を生きる私たちは、ルネサンス期に生きたベネデッタの人生より恵まれているということだけは、はっきりしているのではないでしょうか。奇跡体験であっても周りの人々はしっかりと受け入れてくれるでしょうし、同性愛者であっても、宗教的な異端者として見られることは無いのではないでしょうか。
 
さて、思うところをつらつらと書いてみましたが、みなさまはいかがお考えでしょうか。修道院を舞台としていることから、宗教問題を避けることはできませんでしたが、宗教的な教義についてはそれぞれの思うところを大切にしていただければ結構かと思います。
 
このところ統一教会の問題が話題となっていましたが、最近では「エホバの証人」が取り上げられております。キリスト教や宗教そのものの存在価値が揺らいでいる今日、キリスト教から派生した統一教会やエホバの証人などはその存在意義を失い、人格否定によってただの集金マシーンと化していることなどが連日報道されています。
 
キリスト教創成期にイエスが弟子たちを叱ったように、組織は腐敗を生み大きな利権が人々を支配するということは紛れもない事実といえるでしょう。頭では分かっていても、わたしたちは永遠に宗教という呪縛から逃れることはできないのかもしれません。
 
 最後に…。

この作品は2023年2月17日に公開されたばかりです。上映している映画館はそれほど多くはないみたいですが、どんよりとした雰囲気が好きな方には、ぜひご覧いただきたいと思います。いろいろな意味で美しい映像が楽しめます。
 
ではでは。


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