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台湾の時代についての説明

前書き

実は、結構前、FBのブログを書いたが、勿論、FBの撤去されたわけで、全部失った。友達のブログを見て、このサイトを分かったキッカケで、ここでもう一度書くつもりだ。
台湾に長い間住んでいたので、どんどん台湾のことを知ってきて、昔の刷り込みもいよいよ捨てた状態だ。逆に、何故世界はこの台湾はそんなに分からない事に、残念だと思ってきた。これもこの文を書きたい原因の一つである。
実は台湾の教育のせいで、自分の歴史と政治状態を詳しく説明できない。これは一般人だけじゃなくて、政治的な偉い方や、専門家や、学院の教師も同じだ。でも、外人は唯真実し、理解やすい説明があれば、台湾と親しくなるはずだと思う。その謎を破れて、困惑を解ければ、絶対何故台湾は今世界中の話題になり、そして何故で自由世界、民主主義陣営にとって、台湾は不可欠な存在だと分かってくれるだろう。
これから、私の知り限りで、なるべく簡単に台湾の近代史を述べる。

清国の割譲

前はスペインとオランダの一部の台湾を占拠したんけど、明鄭の入りはより正式な統領が言えるんだ。その前では、浮浪な漢人や平地と山地の先住民ばかりの無法地帯と見られた。誰も真っ当に見てなかった島だったが、この周りの、たとえ日本人と福建人、広東人あるいは海上貿易の東南アジア各民族の補給点として、扱っていた。
清国はその後、明鄭を破滅させるために攻めてきて、その後台湾を領したことが言えるんけど、あまり真面目に経営してなかった。ある長い時期は放置して、しかも徳川幕府のよう海禁令もあった。
清国が近代に入れ、欧米諸国に敵わなくて、いよいよ海防の拠点として、目線に入れ始めたが、自分国内の内政も乱れながら、やはり辺鄙の地だと大陸型の清国が思われた。
ついに日清戦争によって、清国は領土の中に捨てられた部分として、日本に割譲した。これから、50年の統治を始めた。前期は清国のように反乱などの動乱ばかりだけど、いよいよ殖産興業の政策で、台湾を安定させ、日本本土に譲らない近代化に仕上がった。今の台湾でも、その帝国時代の日本に絡んだ遺跡と建物は未だいっぱい残された。

第一共和国時代

1911年、中華民国は清国を転覆して、革命の形で成立した。でも、台湾は帝国日本の治めで、中華民国も清国の国際条約を後継して、台湾はそのままだった。地理的に近いけど、やはり外国だし、中華民国の領事館までも、今台北の大稻埕という地域にあった。立派な明らかに外交関係だった。
厳しく言えば、その時は共和国とは言えなかった。中華民国は約法という様な臨時的な憲法を行い、その戦後の1947年まで内戦で中国共産党にどんどん負けた中国国民党政府は漸く正式な憲法が仕上がったばかりだけど、戦乱の為に一時的に凍結したとしょうがなくの結果だった。
でも、この時代の中華民国は、台湾と一切無関係だった。台湾は未だ日本領だし、満州国と異なって、国際的に認めた事実だった。その時の台湾人は日本と同じな教育を受けて、国語は日本語だし、社会面や政治面や、全部日本で支配された。家庭生活には台湾語、客家語や先住民族諸族の言葉を使っているけど、方言みたいな地位だが、これで台湾人は帝国時代の日本国民の一員のことを妨げなかった。

第二共和国時代

戦後、日本は台湾を放棄して、中華民国に復帰した。その時の台湾社会環境は日本本土とほぼ同じ、言葉、生活慣習、民度などは、日本と一緒だった。正直に言えば、台湾は既に国際条約で割譲した土地なので、国際に返済するのは珍しいことだ。でも、戦後の日本は貧乏だし、内政も乱れし、必ずしも無理矢理させたことじゃなかった。引き揚げのわけで、日本の大量な資産は、例えインフラなど、民間や政府を関わらずに、台湾に残された。
しかし間も無くの1949年から内戦の敗北の訳で、大量の中国から移転しにきた官僚と軍人が、台湾人と異なった「外省人」として、上陸した。その前の1947年には既に「二二八事件」の大惨事があって、色々な社会的な揉めたことがあった。この故で、中国国民党政権は権力を握って、白色テロで台湾人を弾圧した。憲法を放置したまま、38年の戒厳令を続けていた。世界最長な戒厳令の実施だと過言ではなかった。蒋介石が君臨した台湾島内では「臨時条款」と「戒厳令」で治めた。唯名義的な共和国でも言えるだろう。
この闇な時代では、異なった政治的な意見があれば、監禁、追放された政治犯はいっぱいいた。しかし、これらの異議あった台湾人が結束して、これから台湾の民主化の光になった。その時代の終盤の1986年に、独裁政府の勧告を無視して、民主進歩党を結成した。

第三共和国時代

蒋介石の後継の蒋経国が死の前、1987年で戒厳令を中止した。台湾社会は相次ぎで、正常化を求めた。その最後は総統選挙も皆んな追求した的だった。遂に1996年に李登輝は総統戦を勝ち、これで台湾は漸く民主化と言えた。これは民主化の始まり、実は政府の官僚はやはり中国国民党の手に握った。社会生活にも経済、教育、マスコミなどは、やはり粗中国国民党系の人間なので、独裁体制の優勢を保ちにきた。
でも、この始まりは大切だった。氷山の解凍のような役割で、第二共和国の末に成立した民主進歩党は、元の体制対して異議ありの人間を集め、どんどん動いている。教育改革、マスコミの解禁、表現の自由を重視し始まり、叛乱罪の廃止し、急速にこの時代を活発させたんだ。いよいよ民主進歩党は地方選挙の力も集めてきた。その印は1994年の台北の首都市長選だった。中国国民党陣営は、この選挙に二つに分けて、一部は新党(新国民党の略称と自称)の自分は中国人の身分を誇り、一部は自分が中国人とも台湾人の二重身分だと自認した陣営だ。今でも、この二つの陣営は合わせて「藍営」と呼ばれ、向こうの民主進歩党は台湾人として立ち上がった姿で、三国志のように大乱闘した。結局、民主進歩党の陳水扁氏は小幅で当選した。
あの選挙の結果は今響いている。例え、今台湾の「藍営」と「緑営」の分類とか、自分のアイデンティティーとか、色々な分類は、漸くあの選挙で見られた。しかし、島内の闘争も始めた。政治的な意見だけじゃなくて、血筋を始まり、教育、言葉、文化、インフラ・・・色々な意見も出てきた。これは独裁政権から解放した国民の活気だと見られ、あえて台湾は変身の前兆だと思う。






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