見出し画像

アイデンティティ

アイデンティティ

「アイデンティティ」

格における存在証明または同一性。ある人が一個の人格として時間的・空間的に一貫して存在している認識をもち、それが他者や共同体からも認められていること。自己同一性。同一性。(広辞苑より参照)

もっぱら自己の内面的な認識としてのアイデンティティに関しては価値観、哲学、嗜好が多くを占めると思う。対外的な側面のみにおけるアイデンティティが固定的な社会的な立場に他ならないことを考えればアイデンティティ、その流動性を握っているのは内面的なものであると思う。

内面的なアイデンティティについて思うことは、特に現代それが相対的なものに依存しすぎてしまっているのではないかということ。勿論僕が当事者として経験できたのは今の時代のみなので対照的な感じ方はできないけれど、それでもどこかアイデンティティに対する情熱が消えているような気がする。もっとも、アイデンティティの確立とは絶対的なものを確立するプロセスでありつつ他者と自分とのquestioningによって他者特異性を見出し、それを繰り返すことで初めて自分が、自分としてどのようにあるかを突き詰めていくプロセスであると思うから、相対的な手続きから切り離すことは不可能であるとは思うけど。実際個人的な見解に過ぎないが反抗期もそういった他者との折り合いに関するquestioningの導入としてアイデンティティに関して社会的存在たる人間に備わった生得的な働きだと思う。だけど、もっぱらこの相対的なプロセスにのみ楽しみを覚える人や(例えば何に対しても否定的である等)、もはやquestioningのプロセスを放棄しSNSに流布している既存のアイデンティティの権化としてのライフスタイル(音楽、服、趣味など)のテンプレートに自分を当てはめることでそれをアイデンティティとして誤認してしまっている人が増えている気がする。大多数、自分の所属するコミュニティや著名な人の評価自分の価値判断とすることをよしとする人が多くいるように感じる。「このブランドダサいですか?」、「この服かっこいいですか?」、「これってよくないですよね」等、そんなの自分の嗜好で決めればいいだろって思う。好き嫌いをはっきりすることとコミュニティの意見を尊重することは別に両立不可能なことではなくて、俺はこう思うけど、みんながそう思うならそうするのがベストだよね、で済む話だ。そこの境目も曖昧になっちゃっているんじゃないかって今思った。学生運動なんて今じゃ昔に比べたら全然盛んじゃないし、主義主張を押し出すことにどこか後ろめたさを感じさせるような、自分の心の固い(firmな)部分を出すことをよしとしないような風潮を感じている、もしかしたらfirmな部分がないことが露呈されるのが怖いのかもしれない。学生運動なんかをみていると、懐古厨のような解釈をすると彼らは必死にquestioningを行なっていたんじゃないかと思う。既存の何かを否定することって破戒的で、不安定な僕らにとっては色々な答えを出してくれる。僕は、全員がそうでないにしても、彼らが自分の主張をああいう形で叫んでいたのはとてもカッコいいと思う。よく、生きても、仕方ないし、良さ悪さなんて絶対的な主がいない(僕は無神論者なので)世界では大多数の意見に過ぎないし、よく生きても死ぬんだし。

だから、さすらおうよ、questioningを続けようよ、みんなにとってダサくてもいいじゃん、って思う。いいことをしたければそれもgoodだし。個性的、破戒的、どんと来いって思う。

みんなと、話がしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?