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エイリアンズ症候群

まったく君たちはちょろすぎる。チョロQだ。君たちはチョロQだ。

もう一度だけ言う。

チョロQだ

君たちというのは、つまり、良い歳して腹が出てきても尚、サブカルに肩までつかって一年中青白い顔している、君たちのことだ。

君たちは、ほんとうに、もう、なんだってそうなのだ。そんなんだから、狙い撃ちされるのだ。

なさけないよ。

何がなさけないって、つまりは、『エイリアンズ』だ。

キリンジの『エイリアンズ』をカバーしているからって、いともたやすく、うたがいもせず、あっさりと“こっち側”のミュージシャンだと思い込んでしまう、そのガードのゆるさ。

ガードのゆるさ、ちょろさ、それが、もう、たえがたくなさけないという話。

分かるかね。ほんとに。しっかりしてくれ、たのむから。

じゃあ、これから、『エイリアンズ』をカバーしているやつらを挙げてくよ。

心して聞いてくれ。

いいな。

いくぞ。

鈴木康博
ミズノマリ
土岐麻子
秦基博
たなかりか
UNCHAIN
ハナレグミ
KOHEI JAPAN
Goose house
THE CHARM PARK
のん
鈴木雅之
比屋定篤子
丸本莉子
DJ SASA
やなぎなぎ
田村芽実
南佳孝
森恵
花譜
スピサ
田島貴男
JUJU
小田和正
藤井隆

星野源
安藤裕子
私立恵比寿中学
GRANRODEO
町あかり
堂珍嘉邦

どうだ。

よくもまあ、こんなに、と思うが、これでもぜんぜん一部だ。
ぜんぜん、一部。
一部中の一部。
記憶によれば、藤井風とかもなんかいっちょ噛みしてた。

ためしに『エイリアンズ』でYouTubeで検索してみてくれ。もっとグロいから。これに、一般人と外国人がくわわって、もっとグロいから。

いや、ほんとに。

ほんとにもう、しっかりしてくれ。

秦基博とか星野源とか、“いかにも”な人たちはもちろんのこと、田島貴男とか鈴木雅之とか、いわゆるオオゴショたちの、“いまの才能ある若い子の音楽もちゃんと聴いてます”、“良い音楽見つける感性にぶってません”アピールの餌食にされているだけなのが、分からないかね。

小田和正が“ここで歌われてる景色をぼくはよく知ってる気がする”とかなんとか言ったって、そんな感心して聞くような話かよ。

マジでさ。

あとは、なんだ。

のんとかとか。
『花束みたいな恋をした』を喜んで見る層が“そうだよねえ!”とニコニコうなずいちゃう人たち。

もう一度言うよ。

『花束みたいな恋をした』を喜んで見る層が“そうだよねえ!”とニコニコうなずいちゃう人たち。

だから、そう、つまり、君たちなわけだが。
この記事でずっと言ってる君たちなわけだが。
要するに君たちなわけだが。

もう。

杏の『ふむふむ』じゃねえよ。
のんって実際見るとめちゃくちゃキラキラしてるんだって”じゃねえよ。

もうやめてくれよ。
サブカルかぶれで、王様のブランチで紹介されてる本とか読んでそうで、要するに正統派からちょっとだけズレて、みたいな女優。
そんなもんぜってぇ好きで歌っているわけないだろう。歌えと言われて歌っているだけに決まっていようが。

“良い曲だな”と思った瞬間がなかったとは言わないよ。
“良い曲だな”とは思ってるだろうよ、そりゃ。
だけど、はじめから知ってて、好きで歌ってるかと言うと、ンなわきゃない

というか、仮に好きで歌っているとして、だからなんなんだ。なぜ、そうも、かくも、『エイリアンズ』なんだ。

僕の短所をジョークにしても
眉をひそめないで

どうせ、これだろう。
君たちがいつまでも“刺さった”歌詞は。

いつまで刺さってんだよ。

いやもう、ほんとに、もういい加減さあ。いやさ、もういいだろう。

未だにだよ。
未だに。

どっかのブログなんか見てると、“良い曲見つけました!”とか言って『エイリアンズ』を見つけてくるんだよ。
ありゃたぶん大学生だな。ちがうかな。OLかな。人生頑張ってるOLかもしれないけど、こともあろうに“良い曲見つけました!”だよ。

これにくらべりゃ、『浪漫飛行』の動画に“中学生だけどこの曲聴いてます”なんてコメントするのは、まだ、かわいいもんだ。

問題は、ほんとうに、『エイリアンズ』だ。
この令和五年に、“隠れた名曲”、“エイリアンズ”を“見つけてくる”ひとたちだ。

オイ
オイ
オイ
死ぬわ
アイツ

ってなもんだよ。

なんだろうなあ。

ちかいけど、『サーカスナイト』。

メロウで、曲の尺が6分くらいで……、というところだけど、

しかし、だ。

しかし。

『サーカスナイト』はまだ良いんだよ。
七尾旅人の『サーカスナイト』は良いんだ。

カバーしてるのだって、まあ、一般人は勝手にすれば良いけど、
青葉市子とか、向井秀徳とか……。

ね。

まあ、言うても、そういうひとたちだ。

ここにたとえば、鈴木真海子が加わったとて、なにも怖いことはない。
まだ逃げ道はどこにでもある。

それが『エイリアンズ』になると、囲まれるんだ。

そう。

つまり、囲まれるんだよ、『エイリアンズ』は。
逃げ場がなくて、窒息しそうになる。

ふつうに生きていても、ちょっと歩いて角をまがったところで、ぶつかってくるんだよ。

『エイリアンズ』が。

ほんとうに、もう。
あちらさま、そんなつもりはない、ってな顔で、なんならちょっと不服そうに顔を歪めてきやがる。

ほんとうに、偶然
偶然そこにいました、って顔で、いつも『エイリアンズ』だ。

こっちも急いでるんで”とかなんとか言って、すぐにどこかに行ってしまうんだけど、
にしても、多くねえか、『エイリアンズ』。

テレビ見てても、“エイリアンズ特集”とか言って、これまた、深い時間帯にやってんだわ。

おこちゃまはおふとんに入ってる時間帯。
ちゅーか、きょうび、おこちゃまだって夜更かしするっての。まあ、それは良いとして。

ポッドキャスト聴いてても……、ああ! ポッドキャスト!
聴くのが悪いか、ポッドキャスト。
まあ、ポッドキャストはポッドキャスト聴いてるのが悪いわな。

あとは、youtube見てたら、あたりまえにぶつかってくるし、
思いがけず、高校時代の友人がカラオケで歌ってくるし、

これはもう、現代の『トカトントン』だな。
知ってるか、太宰の『トカトントン』

どうせ君たちなら知っているだろう。
太宰も三島も大好物で、太宰にはまっているときは三島をバカにして、三島にはまっているときは太宰をうらんでいたクチだろうから、知っているだろう。

日常をやりすごしていて、なにか良い流れがきたり、熱中できそうなことが見つかりそうになると、どこからか聞こえてくる“トカトントン”という音。
その音を聞くと、もう、ほんとうに、なにもかもがどうでもよくなる、という、そういう男の苦悩をつづった、あの小説、『トカトントン』。

しかるにあの小説のラストはどうしめられているか覚えているかね。
俺だってちゃんと覚えやしないから青空文庫を調べてきてやるよ。

拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」この場合の「懼る」は、「畏敬」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。不尽。

まあ、こんな具合に、かくもバッサリと主人公の苦悩は、相談だか手紙による告白だかを受けた作家によって、一刀両断にされる。

ここで出ているイエス云々はどうだって良い。あんな、何万か所も改ざんされている本の文言をバカまじめに受け取っても、どうにもならん。
大事なのは、“気取った苦悩ですね”というところだ。

いや、ほんとに。この“気取り”なんだな。“気取った苦悩”なんだな。
どこで知ったのだか、インターネットをさわったことがあるすべての人間がなぜか知っている、“共感性羞恥”という五字熟語。

キョウカンセイシュウチ

オイ
オイ
オイ
死ぬわ
アイツ

ってなもんだよ、ほんとうに。

サブカル野郎の全員がこのキョウカンセイシュウチをおそれ、しかし、耐え難い引力で以て導かれて、たちまちにしてKO。

ちかづかなきゃ良いものを、無意識にちかづいちまうもんだから、原因はこちらにある。

だが、ほんとうにそうか?

こと『エイリアンズ』にかぎっては、この世すべてが地雷地帯なんじゃないか。

だって、日常にありすぎるだろう、『エイリアンズ』。

こんだけありゃ、そりゃみんな知ってるに決まっているものを、なんだってこう、“見つけるまで知らない”んだ。

見つけたことになってしまうんだ。

中島みゆきなら、良いんだ。
中島みゆきの全盛期は、このゼンセイキということばもムズガユイが、ここでは便宜上ゼンセイキと言わせてもらうが、ともかく、実はみんな聴いているんだよ、中島みゆきは。
で、聴いてないふりして、なぜかCDが出るたびにオリコンの良い順位とって、数字という客観的事実で以てみんなで確認しあえる。

暗いから聴いてるって人に言えないけど、でもみんな聴いてるよね”って、そういうことでしょ。

そんで、岡村靖幸とか小沢健二……は、まあ、名前だけで良いか。分かるだろ。

あるいは、中村一義
これも分かりやすくて良いね。
ロキノンとか渋谷陽一とか、そういう言葉で片づく。

それが、『エイリアンズ』になると、まあ、キリンジと言っても良いんだが、
ほんと、どこのだれがどこで出会うんだよ
と、なぜか、そんなことを思ってしまう。

ふつうにみんな知ってるし聴いてるし、隠してもないんだよ、ほんとは。

まあ、ほんとは分からない。

だけど、聴いてるだろう。
聴いてるというか、要は、だから、“見つける”んだ。

見つけたうちにも入らないのに、頭隠してなにも隠してないのに、“見つかる”のがべらぼうにうまいんだな、やっこさん、うっかり“見つけた”と思っちまう。

そんな曲、ほかに知らんのだよ。
くやしいけど、知らんのだから、知らんのだよ。

だからもう、はやく、『若者のすべて』みたいに、中学だか高校だかの音楽の教科書にのってくれ。

夜空ノムコウ』だか『黄金の月』みたいに、国語の教科書にのってくれ。

それで、“見つけた”と言ってしまうやつら、これからも無限に増殖するであろう、“見つけた”と言ってしまうそいつらを生み出さないでくれ。

このままいくと、いつしか俺は、憤死するだろう。

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