カッパカップ

 一人二人と席を立ち、扉が開閉されるたびに雨音が耳に迫る。背の高い椅子から人のまばらな食堂を一望した。老教授が眠っている。
          
 食べ終えたトレーを前に私はお茶を飲んでいた。Kは三限があるからと出ていった。また雨音がした。雨中、小走りのKを遠くに見、やがてその姿も雨にかき消されてしまう。

 コップの底には緑の残滓。ディスペンサーの玄米茶は粉っぽい味わいだ。安っぽくって癖になる。ぬるりと飲み干すと澱が残っていた。手の中に納まってしまうほどの小さな茶碗では、すぐに飲み干してしまうのが不満だ。

 窓辺の席を通りかかると老教授が少し目を覚まし体を震わせ、また寝た。よく寝るものだ。それを傍目に濃い目、ホット、玄米茶。濃い目ボタンを先に押すのを忘れてはいけない。真緑の香りは白い湯気にからまり、生き物のようにうごめいて空中に躍り上がる。

 その中に果実の甘い香りと、鉄の鈍い匂いを感じたが再び鼻を利かせても分からない。茶の温度が染みるだけだ。空気は冷涼である。
 雨でぼやけた煉瓦の塔からノイズ混じりの鐘が響いた。Kの消えたあたりを見る。窓硝子と雨と煉瓦を透かして、講堂の中を想像する。温かくて気だるい午後の教室。

 茶を飲みほした。また沈殿している。だんだん増えてくるようだ。再び注ぎ足して、飲み干した。粉っぽい。堆積が進行している。飲んでは注ぎ、注いでは飲み、少しづつ、しかし確実に層が発達していく。

 いつの間にか老教授の姿は見当たらなかった。食堂の照明の下には私だけだ。奥の皿洗いの音も聞こえない。椀の茶の沈殿は半分、三分の二、四分の三と堆積を重ね、悠久の間、緑の泥が一杯に満ち満ちた。椀の中からにゅっと緑の腕が伸び出したのはその時である。

 指が出、手首が出て、肘が出た。真緑の筋張った手が茶の残滓をこぼしながら探るようにペタリペタリと周囲を触っている。

 やがて、もう一方の腕も伸び出してコップの縁を掴んだと思うと、ぐっと肘を曲げて現れたのは緑色の小人だ。なんだこいつ。テーブルに立っても私の顎に届かない。

私をじっと見ていたそいつが口を開いた。

「おい人間、お前よっぽどだな」

「どういうこと。その前に君はだれだ」

「見てわからんか。おれは河童だ」

確かに頭の皿や背中の甲羅がある。

「河童ってそんなに小さいのか」

「別に小さくはない。ふつうだ」

「君たちの普通なんて知らないけど」

「こっちだってお前たちの普通には興味ない」

「話を戻すけど、君はだれなの」

「言っただろう、河童だ」

「君自身の話だよ。名前はないのか」

「名前はない。ただの河童だ」

「そうか、気楽だな」

「別に気楽ではない」

 だが、いいなと思った。外ではまだ雨が降り続いている。さっきより強くなったらしい。赤い講堂ももう見えない。屋根をつたって樋につながる管から勢いよく流れる水音が近くでうるさく聞こえる。

 視線を河童に戻すと気まずそうにそっぽを向かれた。辛うじて見えた手元、口元とトレーの様子から察するに、皿に残っていたフライの衣かすを食べていたらしい。河童が体の向きを変えたはずみに、小さな頭の上から、これまた小さな何かが振り落とされた。

「色々ごめんよ。油物はおれたちには珍しいんだ。見逃してくれ。それとこっちは最近ずっと一緒にいるのさ」

「蛙だね」

「そうだ。雨蛙なんだ」

 河童は細くとがった指をそっと蛙に差し出して頭上に移してやる。皿の中に住まわせているらしい。

一息ついた河童がまた口を開いた。

「それで、何だってそんなにお茶を飲み続けてるんだ?眠れなくなっちまうぞ」

何の義理があるのかしら、説教くさい。

「もう遅いよ。眠れないのは元からさ」

「だが健全でないなその姿勢は」

「健全って何だい?」

「健康と言ってもいい。玄米茶を飲み続けるのは常人のすることではない」

「河童風情が何を言う。私の頭がおかしいと言いたいのか」

わたしも少し熱くなった。

「ヒトの考えることはよくわからないなあ」

困り顔で言う。

ゲコ。皿のカエルが同調するように鳴いた。

「すぐにヒトに演繹するな。それに、わかって欲しいとは思ってない」

河童は肩をすくめるようなそぶりを見せた。河童はなで肩である。

「ときに君は何なんだ。どこから、どうして、ここにきたの?」

「理由なんてないよ。お前がお茶を飲み続けるのと同じようにね。俺はいつだって流転していたいだけだ」

「ふうん」

「だからわかるんだ。お前はここで外を眺めて茶でも飲んでれば十分なんだよな。どこにも行かなくても、人が去っても、雨が降って季節が回っても、永遠を茶に流す気なんだろ。違う?」

ゲコ。河童の語尾にかぶせるように蛙が一鳴き。

そういわれればそうかも知れないし、そうじゃないかもしれない。でもそんな深いこと考えずにただぼんやりしていたいだけなんだよな。

「つまりそういうことだろ?」

ああ、そういうことかも。

「問題は」
   河童はそこで言葉を切ると神妙な顔つきになった。

 

―問題は?

 

「問題は?いや問題なんてないのか」

「そんなもの無いさ。君も私も、そこの蛙も」

ゲコ。蛙が私の言葉に応答する。

「全く、それもそうか。なあんだ。じゃあいいや。なにまた会いに来るさ。あるいは来ないかも」
    そういうや否や河童は勢いよくコップの中に飛び入り、音もなく緑の中に消えた。泡沫が上がってきて弾けると、バイバイ―という声がこだました。取り残された蛙がコップに浮きつ沈みつしていたが細い腕が液面から伸び出し、蛙をやさしく包んで消えた。

何だったんだろ、今のは。

 残った緑のぬかるみを喉に流す。濃縮された茶。液体に包まれた粉という感じで美味しくはない。あとには何も残らない。悪い気もしない。

 窓の外を見やれば雨はとうに止んでいる。どこからか現れた老教授が居眠りをする。赤い講堂を背景に歩んでくる影は、あれはきっと、Kのやつに違いない。

               〈終〉

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