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自分についての謎

新しい環境に適応するため自我を希釈し、数ヶ月が過ぎた。
そろそろ意思を取り戻しつつある。

正社員で仕事を初めてしてみた。
色んなことがあった。
色んなことがあったのだが、
インターネットの大海原に向けて書くことはなかったので、なんとか耐えた。
つらみを我慢してたら、色んな不調を感じた。
自分はおしまいかもしれないとも思ったが、私がおしまいにしたいのはどう考えても自分ではなく世界なので、おしまいにはならなかった。
自分への理解がちょっと深まった。
今日は、以上の経験を通して解決された疑問とその回答を記録する。

問)何故私は困難な状況に自ら飛び込むのか

これは今に始まったことではない。
私はあえて自分が1番苦手なこととか、向いてないこと、困難な目標に挑戦する癖がある。
今までは、「大体なんでもできるからできることやってもつまらない」とかいう中二病全開の意味づけをして誤魔化してきたわけだが
そろそろ色んな意味で苦しくなってきた。
被扶養時代はこういう課題に真っ向勝負を挑んでは、健康で文化的な最低限度の生活をベットして一発逆転、みたいなプレイの仕方をしており、それで良かった。
社会人ともなると「負け」は「終わり」なのではないかと思わされる。
リスクが大き過ぎる割に確率分布の勝ちの面積には歴戦の猛者がいて勝機がまるで見えないし、そもそも私みたいな小娘、弱点つかれたら一発だ。
それでも勝つまでやめられないのはなぜなのか?

答)弱い自分を感情から守りたいから

前提として、私には恐れているものがある。
「感情」「無意識」の力だ。
どちらもちっぽけなものに感じられるが、折り重なると膨大な量になる。その「ちりも積もったエネルギー」が怖い。
だから私は無意識のシンボルであるお化けが怖いし、ものすごく好かれるのも、ものすごく嫌われるのも怖いから社交以上に人と関わらない。
この恐怖は外部要因によるものばかりでない。
自分の「抑圧された感情」とか「深層心理」の力の強さを感じているから、他人の隠された感情や思考に恐怖を投影してしまう。
決して悪いものばかりではないと分かっているが(愛情とか)
私自身が主に幼少期に「誰にも助けてもらえない寂しさ」だったり「不足による欠乏感」を強く感じてしまって、その溢れる悲しい気持ちに溺れそうになりながら思考に頼ってなんとか安全を獲得してきたから、感情の力を恐れるようになったんだと思う。
まあ無意識の領域は直感とも深く結びついていると思うので、
異常なほど冴えてる時はこういう恐怖も付いてくるよってだけなのかもしれない。それが人間の機能なのかもしれない。
まじ何言ってんだってかんじだけど調子いい時ほど私は自分で自分の何かしらのパワーに溺死しそうでやばい。

そこで導入した防波堤が「困難な試練」。
何かしらのエネルギーが高い人って、スポーツで発散したり、勉強に打ち込んだり、多くの人と関わったりしてバランスを取ってるイメージだけど、そうしないと日常生活がままならんのだと思う。
私もそれに気づいてから感受性の高さ?から「自分の感情の自由」とか「平和とか周りの人との絆」で構成されるアイデンティティを守れるようになった。
これ(目先の課題)がないと自分自身が「全体の意図」とか「過去から蓄積された感情」に溺れて消えてしまうので大事にしている。

まとめ

以上、私が何故困難ばかり選ぶのかについての考察でした。
私は自分自身を保つために困難な状況に飛び込んでは、溢れる感情、満たされない欠乏感を目先の課題のせいにして、これを達成すれば大丈夫になるって言い聞かせて安心しているのだ。
課題を達成した先には一時的な充足感とやはり満たされない欠乏感がある。

最近、そろそろこのパターンから抜け出したい。
丁寧に己の感情を満たしていく必要がある。
なんだそれ楽しそう。

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