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『アパラプティは廻らない』1話 アパラプティ
【あらすじ】
ブラフマナ教の支配する生得的な階級社会。
不可触民の青年アパラプティには金も家族も人権もない。ただ世界の誰よりも幸福だった。アパラプティは同じく不可触民の少年ルードラの家に厄介になっていたが、魔女を探す騎士団によってルードラも家族と離れ離れになり、二人は竹林に逃げこんだ。
最高位の聖職家系に生まれたプレーマドヴェーシャは女であるため自由がなく、父に決められた結婚相手を殺して逃亡してしまう。異端教団シャクティの長サティーマーラに救われ、プレーマは仙聖(魔女)となり、その力で貴族たちを殺していくが、騎士団に追われて竹林に身を隠した。
アパラプティとプレーマドヴェーシャ、正反対の二人が出逢う。
【1話】
竹葉に身を預け、朝日の温かさに世界が満たされている。遠くに水流の音。かすかに甘い香草が鼻腔をくすぐる。野鳥の鳴き声がして、自己存在を思いだす。呼吸に気づく。息を吸い、吐く。感覚器官が世界を感じる。生きているのを知る。世界から人間、我々から私に。
手や顔に虫が這う。身を起こすと乾燥した葉が落ち、虫も転ぶ。全身を覆う竹葉がとれ、冬明けのほんのり湿った風が心地いい。
竹に背中を預け、世界に戻る。森羅万象が調和する。我々が世界であり調和そのもの。
「おーい、まだ寝てんのかアパラプティ」
接近には気づいていたから、話しかけられる前に我々は私となる。
「やあ、ルードラ」
「おお、なんだ起きてたのかよ」
ルードラは頭をかく。シラミが散らばる。籠を背負い、箒を携えた彼は、二〇歳前後のアパラプティの半分弱歳下の、近くの農村に暮らす少年。
「遅いから様子見にきたんだ。今日は朝食いらねえの」
「ああ、もうそんな時間だったんだ」
「いろいろ気づくのに、そういうのは気づかないんだもんな。自分の分業姓はしっかりまっとうしなきゃだめなんだぜ、物乞いのアパラプティ」
「わかってるよ。でも食べ物は別の家からもわけてもらえるから」
「気ぃ遣うなって。アヌジャもくるの楽しみにしてるからさ」
「アヌジャはよくなった」
「食中毒の熱はすっかりさがったよ」
「そっか」
竹藪の間から陽射し。爽やかな晴れ空。
「それじゃあ、君の分業姓の世話になろうかな、農民のルードラくん」
「農地はもってねえけどな。収穫してんのは俺達なのにおこぼれしかもらえねえ」
ルードラの背負う籠は香草や薬草でいっぱい。それらを刈った小鎌も籠の中。
「ぼくが背負おうか」
「いいって、これは俺の仕事だ」
歩きながらルードラが竹葉を掃き、整えられた街道を馬車が通りがかる。武装した騎士団らしき足音も率いる。物々しい。
「うわ、最悪だ」
呟いたルードラと道端に叩頭する。馬車の音が大きくなる。大地がゆれ、竹葉が舞い、鳥が飛び去り、草葉が踊る。世界と調和しかけたが、頭部に強い刺激がきて、人間の意識が蘇る。生暖かい感触が額を伝って地面にふる。血液。
馬車が止まる。
「おい貴様ら、こんなところで子供二人で何をしている」
少年の声。アパラプティとルードラの間ぐらい。ルードラは固くなる。
「怪しい奴らだな。まさか」
「不可触民などに話しかけるな」大人の男。「見るだけで穢れるのだ。話せば尚更だろう。お前は不可触民に石を投げたが、それも穢れを感染させるかもしれんのだぞ」
「そんな」
「すぐ先の泉水を使って浄化しなければな。全くこんな時に手間をかけさせるな」
親子だろうか。少年がうろたえる。
「で、ですが、こんな時だからこそ怪しい者を尋問する必要が」
「探しているのは女だ。そこのオス2匹ではない」
「匿っている可能性も」
「いずれにせよ周辺の村は見てまわる。もし匿っていれば家族ごと処刑すればよい。不可触民でも見知らぬ女より家族を大切にする程度の知能はあるだろう。今は空気から穢れをうつされたくない。おい、さっさとだせ」
馬がいななく。騎士団と馬車が遠ざかる。馬車には親子以外にも気配を感じたが、声は発さなかった。ルードラが息をつく。
「あっ、アパラプティ、頭っ」流血に気づき、見えなくなった馬車をにらむ。「くそっ、ふざけやがって。赤い馬車だったから武士貴族だな、あいつら。生まれの四色姓に恵まれただけで偉そうにしやがって。法典の最高法が非暴力って知らねえのかっ」
声を荒げながら籠をおろし、いくつか薬草を選んで揉む。
「ダリットは四色姓の外だからね」
「アパラプティは悔しくないのかよ」
頭部に揉んだ薬草を塗ってくれる。
「んー、彼らが可哀想とは思ったけど、悔しがることは何もないかな」
「可哀想って、何であいつらが」
風と陽射しが気持ちいい。
「誰かを見下すことでしか自己価値を保てないなんて可哀想だよ。ありのままの自分を認められれば幸福になれるのに、生まれもった権力を自己存在と同化するように教育されてきたんだ。不幸な親から不幸の因業をうけ継いで。権力があるぶん世界の声が聴こえづらくて、自ら幸福を遠ざけちゃってる事にも気づけない。幸福じゃないから権力に執着するのに、執着は幸福と正反対のものなんだから、自分で自分を不幸にする。不幸な親から幸福のなり方は教われないからね。彼らは輪廻する因業の被害者なんだ。ルードラは彼らが不幸な人達だって思わないの」
ため息をつかれる。
「そうだった。アパラプティはそういう奴だった」
「ルードラも幸福になればいいんだよ。世界はこんなにも美しくて幸福に満ちてるんだから、優越感とか劣等感に執着するのはやめて、世界がただ有る事に気づいて、宇宙の調和を感じれば怒りなんてどうでもよくなるよ」
傷薬を塗り終える。
「馬糞にハエがたかってても美しいのかよ」
遠くにハエの音。
「もちろん美しいよ。彼らも世界なんだから。それにせっかく糞があるなら、もう一つの分業姓を全うできるじゃないか、街路清掃屋のルードラくん」
「そっちの姓でよぶな」
「清掃屋も美しい仕事だと思うけどね」
「生まれのいい連中の嫌がる穢れ仕事だろ」
「そう思いこんでるだけだよ。絶対的に美しいものなんて存在しない。醜いものだってそうだ。美しさを決めるのは他人じゃなくて自分自身なんだから」
「……どっちにしろ、今は箒しかないから回収できねえし」
「ああ、そっか」
馬糞に集るハエを横切る。無数のハエは寄ってこない。カレー臭が全身に染みているから。前を歩くルードラが呟く。
「世界に幸福なんてほとんどねえよ。権力もった奴も幸福じゃないってなら、幸福な奴なんかアパラプティ以外誰もいないかもな」
「何でみんな幸福にならないんだろう。望んでる事は同じなのに。聖職者も武士貴族もダリットも、みんな幸福を求めてる」
「知らねえよ、そんなこと」
「幸福は難しい事じゃないんだよ。難しくしてるのは自分自身の思いこみ。お互いの幸福がぶつかりあう事もない。争いは幸福を誤解してるから起こる。欲望は幸福と無関係なんだ。今の自分がもってないものを求めて、何を手に入れても心が満たされる事はない。自分の欠乏感を満たす方法を外に求めるのは、虫刺されで腫れた場所を掻くようなものだよ。幸福になるのは簡単。地位名誉に執着しないで、優越感と劣等感を手放して、ありのままの自分を認めてあげるだけでいいんだから」
「それができれば苦労しねえって。それよりまた変な連中と会う前にいこうぜ。今塗った薬だって即興でやっただけだから、家でちゃんとした薬を使ったほうがいいかもしんねえし」
ルードラが歩を速める。急ぐ事ないのに、と思いながらついていく。今この瞬間に有る世界をただ感じればいいんだよ。それが幸福なんだよ。何で皆、幸福になろうとしないんだろう。
ダリットの居住区は四色姓の居住区と川や農地で区切られ、村外れにあり、湿気が多くてじめじめする。大工に直してもらえないから崩れていないのが不思議な茅葺屋根の小屋ばかり。
ルードラの小屋には彼の父母と妹がいた。
「あら、おかえり、ルードラ、アパラプティ」
「おかえりっ」
小さな女の子に突進された。
「ただいま、アヌジャ、すっかり元気だね」
「うんっ、元気になった」
アヌジャの尻尾がゆれる。ばんざいした手には肉球がある。
「よかったね」
白い髪をなでると、常人とは異なる場所に生えた耳がぴょこぴょこした。アパラプティはこの家の人間ではないが、ご飯を食べたり遊んだりする。
「包帯ある? アパラプティが頭ケガしてさ」
父親が立ちあがる。アヌジャの耳もしなる。
「どうしたんだ」
「武士貴族の騎士団だよ。アパラプティを連れてくる時に遭ってさ、馬車からガキに石投げられたんだ」
「騎士団……王族かもしれんな」
アヌジャが包帯をもってくる。
「大丈夫?」
「これぐらい何ともないよ」
「俺がやろう」
父親の手で包帯が巻かれる。大げさだなあと思いながらも血で食卓を穢すのは善くないようだからされるがままにする。
「その騎士団、どんな様子だった」
「んー、どうだったかなあ」
「殺気立ってる感じだったよね」
「あ、そういえばなんかピリピリしてたな」
父親は唸る。
「都市部でなにかあったのか」
包帯を巻き終えた。
「周辺の村をまわるっていってたけど、ここにはまだきてないんだね」
父母がアパラプティを見る。
「それは物騒だな」
「大丈夫かしら」
「こっちに火が飛んでこなければいいが」
父親が食卓に料理を並べる。
「ま、とりあえず朝食にしよう」
水気の多い緑米と野菜、魚の素焼きがひと皿にのせられた料理を人数分用意した。アパラプティの席はルードラとアヌジャの間。
「私は不浄がきたからむこうで食べるわね」
母親は奥にひっこむ。不浄とは経血。血は不浄であり、食事は聖なるものだから、台所や食卓に穢れをもちこんではならない、と法典にある。
最初に食べ始めたのは父親。それからルードラとアヌジャも料理に手をつける。不浄な左手は添えるだけ。食物を掴むのは右手。アパラプティは世界の恵みと万物の相互作用に感謝し、その有り難さと必然的な摂理に手をあわせる。緑米はべちゃべちゃしているが、味わって噛んでいればもちもちが見つかり、噛めば噛むほど甘味が口内に満ちる。野菜に包んだ焼き魚も米と調和する。世界の輪廻。この何でもない食事にも、宇宙の始まりと終わりが有るのを感じる。
食事中は会話禁止。三人は静かに食べた。
朝食後アヌジャは昼寝。母親と寝ている。ここでの食事は一日二食。母親の使った食器は父親が片し、石壺の雨漏り水で洗う。ダリットは井戸を使えない。
「なあ、アパラプティ」ルードラは正面に座っている。「たしかあいつら、女を探してるとかいってなかったか」
「そういってたね」
「その女なにしたんだろ。聖職者か武士貴族の王を殺したとか」
「派遣された部隊規模にもよるが」洗い物を終えた父親も席につく。「わざわざ騎士団を使って、女を探すなんて尋常なことじゃない。もしかすると魔女かもしれんな」
「魔女?」
「ああ、最近噂になっているんだが、一生族でありながら仙聖になった者達がいるらしいんだ。そいつらが都市でなにか事件を起こしたのかもしれん」
「ええっ」ルードラの声が家中に響いた。声をひそめる。「仙聖って、輪廻族ん中から神々に選ばれたやつしかなれないんだろ」
「それも四住季節の学生季を終えた聖職者か、家住季の武士貴族、林住季の生産民しか如意神樹の聖域に入ることは許されず、聖杯の水を飲むことはできない。女は聖職者に生まれても仙聖にはなれないし、聖選式にすら参加できないはずだ。なのに蓮華輪を開華させて、聖霊と繋がってその息吹を扱えるから魔女ってわけだ」
「なんで魔女は聖霊と繋がれんの」
「そんなの知るわけないだろ。まあ、だから魔女なんだろうな、知らんけど」
足裏に大地のゆれがくる。いななき。ルードラと父親が目をみはる。
「馬だ!」
「騎兵隊かっ」
「もうきたのかよっ」
「ルードラ、急いでママを起こせ! やつらがこっちにくる前にアヌジャを隠すんだ」
小屋がゆれる。ルードラは奥へいった。さっきより近くで馬が鳴く。騒がしくなる。ルードラが母親を連れてきた。父母が目を見交わす。
「アヌジャは」
「床下に」
「……よし」
ひづめの音。
「ガヤ村の諸君、我はマユラ朝の王族にして、アショーカ王の従弟アニクである」
はりのあるその声は、道中に遭った馬車から聴こえた男と同じだった。アショーカ王、と聴いたアパラプティの脳裏に血飛沫がひらめく。
「我々がこの村に訪れた理由はただひとつ、卑しい女の身でありながら多くの輪廻族を殺してまわり、わが騎兵隊の騎士達をも殺した大罪人がこの近くに逃げこんだためである。まだそう遠くへはいっていない。よもやその穢れた魔女はこのガヤ村に潜伏していることもありうるのだ。諸君、自らの潔白を証明したくば外にでよ」
アパラプティらは顔を見あわせる。ルードラと父母は不安げにアヌジャが見つからないことを祈る。
村人らは広場に集められた。ダリットは隔離区画と村をへだてる川の前に集められる。騎士らは監視役と捜索役に分かれ、村中の家に押し入る。不可触民の小屋が好きな騎士はおらず、手早くすませる。ルードラと父母は安堵を隠す。
二人の騎士がルードラ家に入ったが、小屋自体が小さいのもあり、あまり時をかけずでてきた。アヌジャは連れていない。父親が母親の背をさする。
そのとき馬車がきた。
「首尾はどうだ」
この声にも聴きおぼえがあった。アパラプティに石を投げた少年。
二人の騎士がひざまずく。
「はっ、ドゥルーヴさま、今のところ魔女の姿は見つかっておりません」
「そうか。ところでさっきから見ていたが、汝らはこれが国家叛逆者をさがす重要な任務だというのを自覚していないようだ」
「は……」
「一軒一軒ここに魔女がいると信じて、全身全霊をもって探しているか。この捜索が王の命、ひいてはマユラ朝の存続をかけたものだと理解しているか」
「それは」
「もしあとになって、この村に魔女がいたとわかったらどうなる思う。まず汝自身の命はない。また、汝らの家族も惨殺されるだろう、騎士らの欲のはけ口となったあとでな」
騎士二人は青ざめる。
「案ずるな。誠実さを示していれば王も誠実でもって応じてくれよう。私は親切心でいっているのだ。わかったら身を入れて、自らと家族の命をかけて捜索にあたれ。不可触民の穢れはあとで沐浴し、夕餉を断食すれば浄められる」
「ははっ、ご忠告痛み入ります」
騎士らは身を翻す。
「ん」ドゥルーヴは目をすがめる。「待て」
御者と騎士たちの両方を止める。
その眼差しはアパラプティとルードラを射ていた。
「そこな二人」馬車をおり、同乗していた男と近寄ってくる。「ああ思いだした。そうだ、あのとき街路を歩いていた不審者だな」
ルードラは顔をさげていたが、逃れられないとわかって身を震わせる。
「まさかこの村出身とは。これは偶然か必然か」
誰も言葉を発さない。父母も黙ってルードラを見つめる。
「汝らの家宅はどこだ」
ルードラは動けない。代わりにアパラプティがいう。
「ぼくたちはその魔女のことはなにも知りませんよ」
顔を蹴られた。
「許可のない発言はひかえろ不可触民。汝らの家宅はどこだ」
赤く腫れた頬をさすりながら、アパラプティの胸に哀れみが満ちる。なんてかわいそうなんだろう。暴力で従わせることしか知らないなんて。まだ若い心にもうすでに不幸の因業が居座り、幸福を希む心は輪廻に囚われてしまっている。どうすればこの少年を救えるのだろう。なぜ自らを苦しめる世界を選んでいるのだろう。ありのままの世界は優しく自愛に満ちているのに。
「なぜ自らを」
「あっ、あそこですっ」
ルードラの声がかぶさった。指さした方向をドゥルーヴが追う。
「ほう、ちょうど今調べたところではないか」騎士二人を見る。「よし、ではあらためてそこな小屋から点検しなおせ。時間をかけ、隈なく徹底的にだ。少しの痕跡も見のがすな」
騎士らは小屋に入る。ドゥルーヴににらまれる。
「ところで己、俺になにか口ごたえしようとしたか」
真横からルードラの圧を感じたが、世界に従ってアパラプティは微笑む。
「きみがなぜ、自らを苦しめているのかわからなくて」
「……なんだと」
「なぜ不幸を選んでいるの。何にそれほど怒っているの。ぼくはきみを苦しみから解放してあげたい。そのためには、きみを縛っている因業がどんなものか知らなきゃいけない。だから教えてほしい。ぼくはあなたの全てをうけとめます。あなたが幸福になれるように」
同じ場所を蹴られた。
「黙れ」
意識がゆさぶられ、地面に倒れ伏す。
「不可触民風情が武士貴族に啓蒙する気か。己こそ前世に犯した罪の因業により、穢れた血のもとに生まれ落ちたのだろうが」
仰向けに寝転ぶ。頬の痛みと血の味。風が吹いている。鳥が鳴く。世界は奇跡ばかりに彩られ、無限の愛で満たされていた。
幸福に起きあがる。
「暴力は怒り、怒りは悲しみと怖れ、そして罪悪感から生じる。きみは何を悲しみ、怖れているの。怖れなくていいんだよ。ぼくはきみの敵じゃない。誰の敵でもない。きみが何をしても、何をいっても、怨みの因業は返さない。どうか心をひらいて。自分自身の罪悪感を赦してあげて。そして幸福になって」
「こいつを捕らえろっ」
駆けつけてきた騎士らに押さえつけられる。声がでない。
「アパラプティっ」
ルードラは立ちあがるが、ドゥルーヴの眼光に腰を抜かす。
「黙って不可触民の生をまっとうすればよかったものを」アパラプティの頭をふみつける。「不可触民の穢れた身で武士貴族に楯突くような罪人を閻魔は見逃さぬであろう。幽世で裁かれたその魂はアグニの炎に焼かれ、言語に絶する苦痛を経たのち、永劫に消え失せるのだ」
捜索を終えた騎士二人がでてくる。アヌジャはいない。ルードラと父母はひそかに息をつく。
「ドゥルーヴ様、なんの痕跡も見つかりませんでした」
「なんの成果も、得られませんでした」
騎士らはドゥルーヴの表情に「ひぇっ」とこぼす。ドゥルーヴは低い声で、
「……念のため燃やしておけ」
怯えた騎士らだが、その言葉は聴きもらさず返事した。
ピューピー、と笛が吹かれる。
ルードラと父母は息を呑む。三人共動けないうちに騎士が数人増え、火と弓矢が用意される。矢先に火が灯る。ルードラが叫んで駆けだした。騎士一人を突き飛ばすが、アパラプティを押さえていた騎士の何人かがルードラを組み伏せる。遅れて父親も立ちあがって騎士をはり倒した。アパラプティを押さえるのに両手がふさがっていた騎士二人は気絶。打ちどころが悪かった。仲間をやられた騎士らは戸惑い、ルードラは拘束をすり抜けた。追おうとした騎士を父親が後ろから蹴り倒す。
そのとき火矢が放たれた。小屋に火が灯る。母親が駆け寄っている途中だった。最近は晴天続きだったから燃え広がるのも速い。煙が風にのり、のどをなでる。
「執行妨害で連行しろ! 殺しても構わん!」
ドゥルーヴの叫びに笛音が応じ、村にいた騎士らが集まる。馬の足音が大地を震わす。アパラプティ、ルードラとその父親は退路をふさがれた。他のダリットは静観する。アパラプティやルードラらとは無関係だ、という無言の主張。
小屋が崩れはじめる。もう入れなくなり、うずくまって嘆く母親に剣を抜いた騎士が迫る。炎上する小屋から、
「ミャアアッッ」
黒煙が切り裂かれた。猫耳と尻尾のついた女の子だった。アヌジャは火のついた尻尾をごろんと転がってかき消そうとする。それだけでは消えなかったが、ふーふーしたら細い煙となって空気に溶けた。
母親を襲おうとしていた騎士が立ちどまる。ひと息ついたアヌジャから距離をとるようにあとずさる。
「あ、う、うあ、ぁああっ」
騎士は剣を突槍として特攻した。純粋な生存本能の対象となったアヌジャは、それ以上に無垢な心で剣先を見つめる。鮮血が散る。騎士の突撃はアヌジャを抱いた母の左肩を貫いた。流血はアヌジャの頭にかかり、額を通って顎先からこぼれる。母親は崩れ落ちた。剣先がひき抜かれて流血は増す。アヌジャの瞳孔が縮まり、一瞬世界がぼやける。その反動かのように、黒い瞳孔が開いた。
肉球の手を広げる。爪が鋭利な刃となって流線を描く。喉を抉られた騎士が瞳の光彩を喪う。
「ミィィアアァァァ――ッッ」
この場のほぼ全人間が、アヌジャに全意識を吸いこまれる。アパラプティだけは騎士のとり落とした命の灯火を悼んで泣く。
「ち、魔の者……」
騎士の誰かが呟く。まず動いたのはダリットだった。恐怖心のままに逃げだそうとした。それで冷静さをとり戻したのはドゥルーヴ。
「うろたえるな! チャンダーラがなんだ! 騎士の責務を果たせ! 誰も逃がすな!」
音に反応したアヌジャが飛びかかる。常人と異なる背骨と関節を活かした跳躍だが、突然重心を崩し、不自然な軌道で左に転倒。アヌジャとドゥルーヴの間に右側の皿を傾けた天秤がうかぶ。ドゥルーヴの背後から赤服男が前にくる。あのときも馬車に乗っていた、声を聴いていない三人目。右手に変な指輪。
「お、おお、サマニヤーヤ」
ドゥルーヴの声に余裕が戻る。サマニヤーヤがアヌジャと対峙し、騎士らはダリットを押さえるのに手一杯。父親がルードラの背中を押し、アパラプティの肩を叩く。
「今のうちに逃げろ」
ルードラは目をみはる。
「パパも」
「ママとアヌジャも連れていかなきゃならん」
「だったら俺も残る」
「俺は目立つ。お前らだけなら気づかれずに抜けだせる」
「でも」
「どうせお前らが残っても戦力にならん。俺はママとアヌジャを助けるのに集中したいんだ。お前らを気にかけてやれない」
「気にかけなくてもいいから残る」
「だめだ」
「なんでっ」
「気にかけないのは不可能だからだ。どっちつかずになってどっちも救えなくなる。足手まといになってママとアヌジャを殺したいか」
「そんなこと」
「邪魔だから先にいけ。後でいく」
父親は隠していた小鎌を構え、地面に伏せる妻のもとへ。
ここから竹林は近い。今なら逃げこめる。人々が傷つけあっている今なら。慈しみと悲しみが身内に渦巻く。傷つけあうことなんてないのに。皆の希望は一致している。本心を語りあえばわかりあえるはずなのに。怖れに調律された相互作用が因業となって人々を争わせている。誰も世界に気づいていない。誰も彼もが有るものから目をそむけている。
慈悲に暮れるアパラプティは、手をひっぱられて走らされた。すぐに手は離れ、ルードラが先頭をいって竹林へ。頬に冷たい感触があたった。温かい水滴だった。
この温かさに気づいてほしい。彼らの求めているものはここにある。
生い茂る竹藪に紛れ、落ち葉で足音を立てないように進む。途中ルードラの整えた街路を通り、竹林ではアパラプティが前になり、よく知る道を辿る。
どうすればよかったんだろう。
雑念はふり払う。走る今に集中する。痕跡を残さないよう落ち葉はさけ、大小様々な石や地面をふむ。最短距離を突っきり、目印の大岩が見えたところで立ちどまる。ルードラの顔面が背中につっこんだ。
「ったあ」額をさする。「どうした、急にとまって」
「気配がする」
ルードラの気がひきしまる。
大石がふたつ連なるその麓には穴がある。アパラプティの住処。人工的か自然にできたかはわからない。二人入るのがやっとの大きさだが、竹葉で穴を塞げは見つからず、竹や大石で雪や小雨は凌げる。どしゃぶりや強風には無力。その穴から気配。
「もしもし」
真横からぎょっとされる。構わず、
「ここはぼくの家でもあるんですが、あなたはどうしてそこに隠れているんですか。ぼくたちは騎士に追われて逃げてきました。あなたも追われる立場なのではないですか。三人だと窮屈でしょうけど、どうか入れてもらえませんかね」
沈黙。
「竹葉をどけていいですか」
沈黙。
「ありがとうございます。無言の肯定ですね」
ガサガサ。ルードラの視線。アパラプティは竹葉の中をさぐり、折り重なる竹の枝々をひく。支えを失った竹葉は穴に吸いこまれた。
「きゃっ」
短い悲鳴。ルードラが覗きこむ。陽光が漆黒髪を照らす。指輪の宝石がルードラの目に煌めく。サマニヤーヤの指輪と似ていた。
「そ、それ」
ルードラは後退り、足が絡まって尻餅をつく。
「あ、あ、魔女……」
頭に竹葉をのせ、砂塗れになった女が上目遣いでにらんでいた。
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