『道徳感情論 ー人間がまず隣人の、次に自分自身の行為や特徴を、自然に判断する際の原動力を分析するための論考ー』 アダム・スミス (1759〜) 高 哲夫 訳 ※書き途中
『道徳感情論 ー人間がまず隣人の、次に自分自身の行為や特徴を、自然に判断する際の原動力を分析するための論考ー』
二次文献では度々触れることがあったけど、実は一度もちゃんと通読したことはなかった『道徳感情論』を講談社学術文庫の高哲夫訳でようやく読んだ。以下は、超ざっくりの備忘録の読書メモ。(そういえば、今年2023年はスミス生誕300周年の年にあたるらしい(スミスは1723年生まれ)。記念シンポジウムとか開催されたりするのかな?あったら行ってみたいね。)
1. 共感(Sympathy)について
スミスの代名詞的な概念の「共感(Sympaty)」。『道徳感情論』は、第一編第一章「共感について」で、かの有名な次の一文から始まる。
確かに、人間は自己保存を行動原理とする利己的な存在ではあるが、それだけではない。スミスは、この共感の概念を基礎として、ホッブズやマンデウィルが主張していたような仕方で人間の動機や行為を全てを利己心に還元するのではなく、人間本性には、他人の喜びや苦しみを想像によって自身の感覚器官で擬似的に再現する原理があることを主張する。スミス曰く、感覚器官は自身の身体と離れて作用するはずがなく、人間は他人が何を感じているかを直接経験することはできない。しかし、人間は他人の観察し、「自分が同じ状況にあればどのように何を感じるか」を想像することによって、観察対象である当人が感じる感情を程度こそ劣りこそするが、多少その当人が感じているものに似た何かを感じる。例えば、拷問にかけられている兄弟を観察し(ここで拷問を例に出すあたり、時代を感じる。啓蒙の世紀といえど、現代の感覚からすると全然残虐な罰の例が『道徳感情論』には結構出てくる。)、
といったわけだ(この他にも『道徳感情論』には共感についての色んな例が出てきて面白い。現代で言うところの「共感性羞恥」や「あいつイタいやつだな〜」といった用法における「イタい」の感覚に該当するような話も出てkる)。ここでスミスが共感すること、すなわち観察対象である他人の感情を自身の中で擬似的に再現することが、「想像」という反省的原理(理性的原理)によってなされるとしてる点が興味深い。スミスと同じく道徳感情を共感から説明したヒュームの場合、共感は、観察対象の置かれている状況を想像することによって起こるというよりも、観察対象である人物の顔つきをはじめとした外的印を観察することで(理性的に吟味することなしに)、ある意味で反射的に起こるとされる作用とされる(ヒュームの共感の「感染的」性格)。
共感を反省的作用とするよりも、反射的な知覚と位置づける点において、現代神経科学が明らかにしたミラーニューロンはスミスよりもヒュームよりなコンセプトになるのかもしれない。また、ヒュームとの比較で言えば、スミスの道徳哲学には認識論がない。知覚と観念と印象に分け、人間を「知覚の束」とした認識論と地続きのヒュームの共感論の方が緻密で厳密に感じる。(あと書いていて思ったけど、デザイン思考とかが言う類の「共感」は、ユーザーが置かれている状況への想像と言う点で、ヒュームよりもスミスよりの共感概念なんだろうな。)
そして、「想像上の立場の交換」によって「同胞感情」を抱くことを意味するとされるスミスの共感の概念は、人間の是認と否認を決定づけるメカニズムとして描かれる。つまり、ある行為を受ける人物(被行為者)とその状況を観察する人物(観察者)の間に共感が成立した場合、すなわち被行為者が抱く感情と観察者が想像した感情の程度が同じであった場合、観察者は被行為者の反応を是認するし、そうでなければ否認することとなる。
この議論で個人的に面白かったのは、観察される側の方が、この共感がもたらす是認と否認のメカニズムを前提として、共感を得るために自らの情念を調節する(自己愛を抑える)という点の指摘。
柘植先生の説明に即せば、人は他人から共感されることに快楽を感じ、他人からの共感を強く欲する存在であるが、他人は自分が抱く程度の情念を抱かないため、他人から共感を得る為に「自己愛の高慢の鼻を折り、それを他人がついていけるものみ引き下げなければならない」ので、人間は共感への欲求から、自己愛を抑えるようになる、といった次第。スミスにとって、他者からの是認を求めることは、自己保存に次ぐ最も強力な傾向であり、それゆえに共感されることによって他者からの是認を得る為に、自己愛が抑えられることとなる。
スミスが強調した人間の「是認(approvation)」への欲求は、『道徳感情論』の執筆から260年ちょっと経った現代でも嫌という程確認することができる。それは対面での会話はもちろんのこと、SNSによって可視化されまくっている。もはや一般的な語彙にもなっている「承認欲求」(マズロー)は、スミスが見抜いた人間本性としての「是認(approvation)」への欲求に他ならないだろうし、「マウンティング」とやらもそうした欲求の発露に他ならないだろう。そうして考えてみると、大衆の「是認(approvation)」への欲求を、「リツート数」や「いいね数」で満たし(まぁ、ぶっちゃけそんなのまやかしだろうけど)、それを間歇強化でブースト、そして個人情報使ってターゲティングした広告でマネタイズするSNSのビジネスモデルはスミスからしても「よくできている」(道徳的な意味ではない)んだと思う。
2. 虚栄心(Vanity)について
個人的にスミスの議論で一番(?)面白いのは虚栄心をめぐる議論かもしれない。虚栄心、すなわち賞賛されることへの強い愛は、共感を本性としてもち、集団生活を営む社会的存在としての人間にとって、強力な動機であることがひしひしと伝わってくる。スミスにとっての虚栄心は、簡単に言うと、「身の程以上に他人から注目されたい、認められたい」と願う感情を指している。
「胸中の観察者」(≒良心)が自らに下す評価よりも高い評価を世間に求めるこの心理は、スミスが考える幸福には寄与せず、「虚栄心と優越感に基づく喜びは、めったに完全な心の平安とは一致しないp274」どころか、虚栄心は多くの悪徳のもとであるのに関わらず、「人間が持つ他の利己的感情のうち、虚栄心は最強のものの1つであり、人間は、常に自分自身に対する他人の賞賛によって、いとも簡単におだてられ、大きな喜びを与えられる。p569」という次第。まぁそりゃみんな多かれ少なかれ、周りの人から「あいつはすごい」って認められてたい気持ちはあるよねっていう。
そしてこの虚栄心が『国富論』では、より鮮明に資本主義の強力な推進力である富と地位への野心(ambition)として描かれることとなる。他人からの羨望の眼差しを求める心理はソースタイン・ウェブレンが『有閑階級の理論』(1899)の中で「衒示的消費」として指摘したことが知られているが、同様の「見せびらかし消費」は18世紀半ばにもいくらでもあっただろうし、もっと言うと人間が社会を形成して、集団生活を営み始めた段階で形は違えど、そうした「凄いと思われたい!」と心理に基づく消費はあったのではなかろうか。(そして現代も言わずもがな。)
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3.スミスにとっての幸福とストア主義
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4.「徳への道」と「財産への道」 富と徳をめぐる問題
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5.スミスにとっての神
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6.「アダム・スミス問題」/ 「顔の見える世界」の中の『道徳感情論』
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