『手の文質へ』

 樹上生活に適応するために手指は発達したという。握り拳をつぶしたような“手のひら”ならぬ“ひらの手”から、欲にうずいてたまらない神経の束が、わずかな突起を手がかりに五回も突出した。こうして欲は五つになったのだと、短い指を見るたびに思う。短小の指は進化の姿を思わせる。今日はついに五とはなんだろうと気にふれて「五欲」を試しに引いてみた。すると「美しいものを見たい〔=色〕、甘美な音楽や声を聞きたい〔=声〕、いい香りの人に接したい〔=香〕、うまい食べ物を食べたい〔=味〕、感触のいいもの(人)に接したい〔=触〕という、人間の五つの欲望」(新明解国語辞典第七版)とあった。五根の欲をこうも端正に記すのかと感心するが、しかし欲はどこまでいっても思慮を欠いて欲であり、これを始点に諍いは絶えない。兄妹のけんかは味に多く発し、かたや内戦の行き着くのはどこまでも悪に屈折した触であろう。
 それはそうと、手の形状はなかなかに奇妙である。やさしいあの人格の大半を占める顔、その顔に取り合わせる手は、油に水である。というのも、私がこれにむずがゆくするのだ。だれか知己の顔を浮かべ、その隣に大きく広げた片手が並ぶ様子を想像してみてほしい。ふつふつ怖気が湧いてこないだろうか。手は棒の集まりで、顔はもちろんそうではない。顔には少ない関節を手は密に請け負っている。それゆえに顔と手が並んでいると、顔がそろそろとならって縦にのび、手のほうから数個の関節がうつる予感がしてしまうのだ。節だらけの棒状の顔、と聞いて、どのように感じるだろうか。手に対する私の恐怖は、まさにそのイメージにつくられてある。肖像画に手がいっしょに描かれてあるのが珍しいのは、そもそものモチーフの不調和が遠因である。
 しかしながら乗り越えて手のきれいな人がいる。これは単なる形状の良し悪しではなく、その使い方、欲望を欺く手法から生まれる、どこか嘘めいた優美さを指している。舞を本業にする人たちは、この手法に卓越する。稽古場で、舞の主眼は手先にあるという話があった。親指は甲に隠し、男は四本をひらき、女は揃えて先を曲げる。そうすると見栄えるといった。親指を隠すきまりには、手の全体形を忌避する意識が隠れているような気もする。舞人は手というコンプレックスの蠱惑にもっとも鋭い職種であり、しばしば演劇にも通ずるポーズの持ち主である。
 指を鳴らすと根元が太くなるうわさのせいで私の指はずんぐりむっくりだ。相撲取りの祖父の隔世遺伝もあるだろう。真実がどうであれ、とても一瞥して映えるものではない。ただこれは手の美意識の第一部でしかなく、しかも舞にしてはまったく取るに足りず、手法の一ですらない。舞台上ではなんとか顔のほかに視線を集めなければならない。そして視線を集めようともくろむことを、手指の欲望のひとつとして折って数えなければならない。

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