#166_叱る行為を掘り下げる

「叱る」ことに対する依存性の高さと危険性に警鐘を鳴らす「叱る依存が止まらない」を読んで一年あまりが経った。
わたし自身の叱る行為は、今は日常でかなり少ないけれど、叱ることの意味を問い直すよい機会をいただけた。

わたしは、かなり厳しく叱られる家庭で育った。
親からのげんこつもビンタもあった。
今だったらDVと呼ばれる環境だ。

わたしの判断や行動の基準は
相手の思いを満たせるか
相手から叱られないかだった。
おもしろいことをやりたいと思っても、叱られる恐怖に勝てずに
クリエイティブとはかけ離れた生活を送っていた。

大学では、縁あってボランティア部に入った。

企画や運営をやる中で
相手意識で活動をつくる大切さと
自分が企画した活動で相手の喜びを引き出せる嬉しさと
自ら活動を生み出す苦しさと楽しさを
すべて味わった気がする。

こんな企画だめだ!と叱られることもあったけど
基本的には自分がやりたいって思ったことは
仲間の同意のもと、実現できた。
仲間の批判は、わたしの思いの足りない部分を確かに分厚くしてくれた。

自分でつくる面白さがみえてきたのがこの時期だった。
それからわたしは教員になり、学ぶ楽しさをたくさん味わった。

わたしにとって叱られることは、
自分の行動を制限されることであり
自分の自由を奪う行為だった。

でも、一度立ち止まって自分の行為の是非を振り返ったり
調子に乗ってる自分に釘を刺したり
自分が「絶対」ではないことに気づかせてくれたのもまた、事実だった。

人の成長には「叱る」ではなく、適切なフィードバックが必要であることは揺るぎない事実だけど
心や体を痛めつける方法では、人は成長しない

相手に負担のない形での「厳しさ」は必要なのではないか
「叱る」という形ではなく
「緊張感」「せざるを得ない状況」
わたしはこれで、自分を鍛えてきたと自負している

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