#136_科学的に「観る」ことへの危惧

科学の発展により、わたしたちは世界をより自分たちが生活しやすく、過ごしやすいものへと変化させてきた。

これは、地球の歴史からしたら驚くべきことである。
生き物は本来、世界に合わせて自分自身を進化させてきた。
世界を変えようとは思わずに、自分を変えようと思ってきたのである。

しかし、科学技術を発展させた礎と言える科学的な見方や考え方は、わたしたちの生活を変えることで、わたしたちが変わらなくても豊かな人生を歩める(と思われた)世界をつくり上げた。
そこに欠乏していたのは何だったのだろうか。

一面的なものの見方や考え方である。

地球にいる、人間以外の様々な生き物を資源としてみる見方。
生き物を人間にとっての益と害の二種類に分けてみる見方。
経済的発展を自国と他国にわけて自国主語でみる見方。

物事は具体的に、主語を小さく考える方が実現しやすくなる。
その結果、わたしたちの住みやすさと引き換えに、地球はどんどん今の環境を崩しながら変化しているのだ。

村田はこのように述べている。

人間は、物理学が描き出すであろうように物理的にだけ生きるわけではない。生物学が描き出すであろうように生物的にだけ生きているわけでもない。同時に、経済学的に生産や消費の関係だけで生きているわけでもなく、政治学的に権力の関係だけで生きているわけでもない。したがって、それにもかかわらず、ただそれだけで生きているかのように見るとすれば、当然、私たちはおのずから人間における重要な多くのものを見落とすことになるわけである。

「道徳教育の論理」pp22-.23

村井の言を借りると
物理学は、世界を物理的なエネルギーの体系としてみる学問。人間を岩石や植物と同様に物理的なエネルギーの保有物として観る。
生物学は、世界を生物進化の体系としてみる学問。生命を分子レベルで捉えようとし、細胞を1つの命の単位として観る。
心理学は、人間を「心」をもった有機体としてみる学問。
社会学は、人間を社会的動物としてみる学問。
経済学は、世界を生産と消費の関係でみる学問。

どの学問も、それぞれ固有の窓口から世界をみていることは共通している。
学問を深く学ぶ意義はそこにあるのだろう。

一方で、固有の学問から世界をみていることを、わたしたちはメタ認知する必要がある。
そしてそれらの根底には、同時に人間として「善く」生きる力を育むことが前提となっていることもまた、忘れてはならないことの一つである。


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