#133_ 道徳科を学ぶ意味を考える

本日の書「道徳授業の創造」宮田丈夫編著

道徳科で何を学ぶのだろう。
「人間のよさを学ぶ」とずっと謳ってきたけれど、人間のよさとは何なのか
道徳的価値とは何なのか。
ずっと考えてきた。

この書籍を読み、これだ!!と思う記述を見つけた。

価値主義がその中心に据える道徳的価値は、始めからできあがった道徳的価値として客観的に存在したものではなく、生きた人間の道徳的な生活体験の過程を通って実践的に生成されたものにほかならない。したがってこのような完成された道徳的価値をこれを生み出した生成の過程に還元し、この体験過程を児童・生徒自身にたどらせる体験過程を通すことによって、初めて真に生きた道徳性として有力に彼らの身につくものというべきであろう。

「道徳授業の創造」p.33

道徳的価値を既存のものとして捉えるのではなく、子ども自身が創り出すものであると捉え、その価値に対する発見を子どもたちに委ねる、ということである。
子ども自身が価値観をつくるのは、道徳の時間だけではない。
むしろ、日常生活の方がずっと多い。
それらの漠然とした価値観を言語化し、深め、統合するのが道徳科の役割である。

道徳的価値一般が決して望ましい行為の方向を直接決めるものではない。行為は生活環境の場の条件によって決定されるものである。しかし、人は何らかの道徳法則、道徳的価値を念頭に浮かべ、それを目安あるいはメドにして、その場の必要な方向を決定するものである。これは、直接に行為を決定するものではないが、行為決定(意志決定)としての目安として働いているといえよう。

同、p.34

人は、与えられた価値で行動決定することもある一方で、場に応じて自らの判断で行動を選択・決定することも数多くあることは、自己の経験を振り返れば自ずと見えてくる。
その決定に際し、「自らの判断」の礎となるのがその人に内在する道徳法則であり、価値観であるといえるだろう。

本書は価値葛藤についても痛烈に批判しているが、これは過去に立ち戻るのではなく新たな道徳の授業を創造したいと願う意思の表れである。

価値葛藤の場の多くは、複数の道徳的価値が混在する場である。優先順位を決めることは、価値理解を深めるきっかけにはなっても、それ自体は深める行為ではない。
価値理解を深めるためには「なぜ」を考える必要がある。
ソクラテスの問答法である。
しかし、「なぜ」を問い続けることは困難だ。
答えを導き出すのが難しい問いだからである。

そこで、著者の一人、西川猛(東京都杉並教育委員会指導主事)は以下の三点を指導過程に組み入れることを提案している。
① 自己の道徳体験の回想(内省と批判)
② 他者の道徳体験の追体験(資料を通しての理解と批判)
③ 自他の道徳体験の相補浸透(自己の確立)

わたしはこの点に関してはやや引っかかりを覚える。
自己の道徳体験の回想が価値観をつくることに繋がるのだろうか。
経験想起というよりも、自己の価値観が見えるような問いを導入では活用し、その価値観と教材を通して見える新たな価値が交差するよう仕組むことで、自らの価値観の深化を図りたいと思う。

正直さとは何なのか。
思いやりをもつとはどのような姿なのか。
わたしたちが「よし」と思っている道徳的価値を再考する時間として、道徳の時間を捉えたいと思う。
また、自分がどうしても拒絶してしまう価値観に対して、今までとは異なる捉え方もできるのではないかという、多面的な見方を広げることで、自らの価値観を広げる時間として、道徳の時間を捉えたい。

そう考えると、生活ー資料ー生活などの大くくりな授業の流れ自体がナンセンスだと感じずにはいられない。
子どもたちは教材を通して自分を重ねることができるし、生活と価値の往還は、大きな流れの中で起こるだけではなく、教材を通して絶えず起こっていると思うからだ。

子どもたちが価値観を再構築するためには、その価値に対する自分の考えを挙げ、その価値観を揺さぶり、教材を通して話し合うことで自らの価値観を再構築する必要がある。
そのためには「問い」と「対話」が欠かせない。
質の高い、話し合いたくなるような問いと、全員の対話を保障するための手立ても必要だ。

今、本学級では、話を「聴く」ことを徹底している。
「聴く」ことができる人は人生を豊かにできる人だと思うから。
そのためには、目的意識をもてるようなおもしろさとともに、習慣化も必要だ。
今徹底しているのは習慣化。
相手を尊重する意識。
明日も、問いと対話を大切に積み重ねていこう。

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