#135_「善さ」と「仁」

引き続き、村井実の道徳教育論を読み進める。

「善さ」も「仁」も道徳を学んでいるものであれば一度は耳にしたことがある言葉だ。
「善さ」とはよりよく生きようとする人間の方向性、「仁」は惻隠の情のとおり、人間に本来眠っている、人と共によりよく生きようとする心の在り方であると捉えている。

村井は以下のように述べる。

「善さ」という言葉自体、かりに人間が本来単独で生きており、また単独で生きうると仮定したばあいには、もともと発生する理由のない言葉である。人間は食べたいものを食べ、苦しいことをさけ、快いことを求めるであろう。しかし、それだけのことである。かりに言葉が必要であったとしても、「快い」「苦しい」「欲しい」などを表す言葉がありうるだけである。しかし、単に「快い」=「欲しい」ではなくて、「善い」、あるいは単に「苦しい」=「欲しい」ではなくて「悪い」などの言葉が発生せざるを得ないということは、それらの「快い」「苦しい」「欲しい」等の衝動が、同時に他の人間の同じ衝動と対置され、比較され、いわば「人ー間」(人と人との間)的ー「相互性」ーな普遍性あるいは妥当性をもつべきものとして表出されていることを意味する。

p.42

人と人との間にいるからこそ「善さ」「仁」という概念が必要になってくるという主張は頷ける。
「善く」あろうとしている人間を倫理的人間像、または道徳的人間像と呼ぶそうだが、村井の主張する倫理と道徳の違いは何だろうか。

さらに、倫理的人間像は他の様々な科学的人間像に対して規範的と呼ぶべき意味をもつと、村上は主張している。

科学的人間像とは、例えば
1.物理学的人間像(物理法則の視点に立って人間をみる)※まだ解釈が足りない
2.生物学的人間像(生物学の視点に立って人間をみる)※まだ解釈が足りない
3.経済学的人間像(物質的な「快」の増大という視点に立って人間をみる)
4.政治学的人間像(権力の視点に立って人間をみる)
だそうである。

わたしたちがそれぞれの学問を発展させてきたのは、心地よく生きるためである。
しかし、心地よく生きるためには他者と共に生きるという視点を欠いてはならない。
持続可能性という点でも、すべての人を人として大切にするという点でも、この視点はなくてはならないものである。

だからこそ、全ての学問の基盤には「善く生きようとする人間像」が欠かせない。

カントの有名な実践的命法がある。

汝は、汝の人格ならびにあらゆる他人の人格における人間性を、つねに同時に目的として取り扱い、けっして単に手段としてのみ取り扱わないように行為せよ

カント「実践理性批判」

人間を手段として取り扱うのは、恐らく科学の発展が目的となり、人の特性がその手段になってしまうことと酷似していると考えられる。

学校現場では、人を育てることではなくそれぞれの学問を効率よく伝達することが目的になりがちであるが、目的はあくまでも子どもたちの人間性を育てることであり、子どもたちの人柄を己の目的(学力向上等)を達成するための手段として取り扱うことなど決してないように、この言葉を肝に銘じたいと思った。
点数を上げるための学校教育ではなく、子どもたちを育て善さを育むための学校教育でありたい。

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