#64_地元の歴史を探る

地域のことが何も分かっていない。
そう悟り、図書館から文献をいくつか借りてきた。
その学びの軌跡を記していく。
参考文献:郷土資料事典(ふるさとの文化遺産 人文社、1997年)

この地区は、近畿地方、北九州と並ぶ、全国有数の古墳地帯だそうだ。
昭和10年の調査で8400余、実数1万基以上と推定されている。
古墳が多い理由は、大和政権の前進基地であったことを象徴している。
古墳は権力の象徴。
後閑町にある天神山古墳は四世紀後半、中国製鏡などを出土したそうだ。
太田市の鶴山古墳からは甲冑や鉄製品が発掘され、同じ太田市の天神山古墳は全長約210メートル、県下最大規模。
ここまで書かれているだけでも相当だ。
古墳マップがほしくなった。

天神山古墳(恐らく後閑町の)が築かれた四世紀頃は、このあたりは毛の国と呼ばれていた。
毛とは、穀物が豊かに実れることを意味している。
これが五世紀頃、渡良瀬川を境に東側を下毛野国、西を上毛野国と呼ぶようになり、律令制に伴って各地の国名(当時は「国」が地域行政の最小単位)を二文字で呼ぶようになって、「上野」と呼ぶようになったそうだ。

ここで不思議に思えるのが、東京の上野との関係である。
調べてみると、上野はもともと「上毛野国」の支配下であり、上の野、つまり高台にある野原という意味も込められていたそうだ。
実際に上野地域は、周囲の低地から見上げる形になる小高い丘の上に位置しており、この地理的特徴が名前の由来という節もあるようである。

こういう地域の名前の繋がりがあるから、地名は面白い。

大化の改新によって国郡制が敷かれ、地方政治が整えられると、上野国は多胡郡を加えた14郡となった。この建郡の記念碑が多胡碑で、宮城県の多賀城碑、栃木県の那須国造碑などとともに歴史的・文化的価値が高いと称されている。

ここで問いがうまれた。
多胡碑はなぜ、文化的価値が高いと称されているのか。
単に古いだけなのか、それ以上に価値があるのか。

ChatGPTに訊ねると、以下のような回答を得た。

歴史的背景
時代:多胡碑は古墳時代末期から飛鳥時代にかけての製作とされ、日本における石碑の歴史の中でも非常に古い部類に入ります。この時期の碑文は非常に珍しく、当時の社会や文化を知る上で貴重な資料となっています。
地方豪族:碑文には多胡氏という地方豪族の名が記されており、古代日本の地方豪族の存在やその役割、中央との関係などを考察する上で重要な手がかりを提供します。
碑文の内容
人物と事績:碑文には、多胡氏の人物(おそらくは氏族の長)の事績が記されており、当時の人々の生活、信仰、社会構造などに関する情報が含まれています。これらの情報は、古代日本の歴史や文化を理解する上で非常に価値があります。
言語学的価値:碑文に使われている言語や文字は、古代日本語の研究や、漢字の使用状況、当時の表記法などを知る上で重要な資料です。
製作技術
石工技術:多胡碑は、石を刻んで文字を彫り込む技術が用いられており、当時の石工技術の高さを伝えています。この技術は、当時の技術水準や芸術性を反映しており、文化的な価値が高いとされています。
保存状態
保存状態:多胡碑は比較的良好な状態で現存しており、長い時間を経てもその形状や碑文がはっきりと残っていることから、保存技術や当時の環境についても知ることができます。

様々な要因が絡み合っていると同時に、実際に見ていないことを恥じた。
やはり、見に行くべきだ。
そして、白地図がほしい。
見つけたことを地図上に書き込みたい。

上野国府は総社町あたりにあったと推定されていて、この近くに山王塔廃寺跡や、すぐ西側の群馬町には上野国分寺跡があるそうだ。
山王塔廃寺跡に残る塔心礎や石製鴟尾、根巻石などを造り出した石造技術、奈良の薬師寺西塔のものととてもよく似ていることから、薬師寺のような大寺院があったことが考えられるという。

このあたり、歴史と絡めながら調べていくと、どこまでも調べられるなぁって思った。
面白いなあ。
実際に古墳に足を運びたくなったし、普段子ども達が遊んでいるような公園自体が古墳であることも頻繁にある。
古墳がもつ意味も知りたい。
知りたいことがどんどん増える。
おもしろいなあ。

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