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『龍にはならない』第9話 田植えの影々

 ソファの上で目を覚ました。少し胸がつかえている。はっきり記憶を掴めないのに嫌な夢を見ていたことが喉のあたりに残っている。窓の外はすでに暗くなっていて、レースのカーテンを揺らす風は夜風になっていて、すっかり涼しくなっていた。

「起きましたか」

 ソファから身を乗り出してキッチンを覗くと、小さな明かりが一つだけついている。そこに魔女が立っていた。まだ虹色の鱗に覆われた龍の姿のままだ。

「どのくらい寝ていました?」

「一時間弱ですかね。根岸は帰りましたよ」

 魔女の答えに驚いてしまった。そんなに寝ていたなんて。思っていたより疲れていたのかもしれない。それにしても、キッチンカウンターに小ぶりな龍がウロウロしているのが不思議でならない。

「あの、元の姿に戻れないんですか?」

「まあ。こんなもんです」

 魔女は答えると、冷蔵庫の中からガラスの容器を取り出しすために背を向けた。つっかえひっかえな動作はカウンターの中で尻尾が邪魔なせいかもしれない。ぎこちない動きがストップモーションアニメでも観ているみたいで、つい気が緩んでしまう。露知らずの魔女は淡々と用意してあったグラスに茶色の液体(おそらく麦茶)を注ぎ入れる。

「良ければお飲みなさい」

 そういえば、喉がカラカラだった。思い返すと朝6時の朝飯以来何も口にせずに過ごしていた。

「ありがとうございます」

差し出されたお茶を有り難くいただく。グラスを受け取った私の手はまだ青い。

「どのくらいで手の青いのは治りますか」

「一晩眠れば治ります」

 静かに答え、魔女は冷蔵庫に茶色の液体(麦茶)の入ったガラスの容器を冷蔵庫に戻した。

「この世界に冷蔵庫はあるんですね」

「一応。半分はそちらさんの世界と繋がっていますから。ちゃんと料金は払っていますよ」

「お金はどうやって……?」

「ちゃんと働いてます。根岸と同じように、人間に紛れて」

 根岸の名前を聞いて、ふと嫌なことを思い出した。

「不安なことがあるんです」

「なんですか?」

「根岸は職場に飛んできたんです。寝坊して、遅刻しそうだったから」

「ええ。本人に聴きました」

「他の人がたまたま見ていたら、私と同じように手が青くなっているのでは?」

 魔女の瞳がキラリと光る。

「鱗粉の光はそこまで遠くに飛ばないので、あなたみたいにかなり近くでみない限り大丈夫です」

「よかった」

 一応ほっとして、もう一つ聞こうと思った時、ふと外で声がした。少し離れたところに幾人か集まっているのか、賑やかなだった。誰かいるのかもしれない。立ち上がってカーテンを開けようとすると、

「だめ。開けないで」

 魔女が慌てて私の手を掴んだ。

「こちらにおいで」

 魔女は奥の部屋へと歩いていく。私はグラスを持ったままソファを降りて後を追う。その間も、窓の外からは人のざわめきが聞こえてきていた。
 奥はロフト付きの部屋で、魔女の寝室らしい。部屋の隅に蒲団が畳んであった。明かりをつけると、龍のままの、尻尾を揺らしながら、魔女は上りづらそうに狭いはしごでロフトに上がる。私もグラスを床に置くと黙ってついていく。天井が低くて狭いロフトには何も置いてなくて、ただ小さな窓がひとつあるだけだった。

「ここから見て下さい」

 私は言われた通り窓から外を見る。外は宵の空だ。西の空の端っこには薄っすら夕焼けを残している。一面に広がる田んぼに風が吹き付け、さざ波が起きる。その中を、昼間はなかった田植え機がゆっくりと進み、畦道や農道には人の形をした黒い影がたむろしている。そのおしゃべりが聞こえてきたのだ。よくよく見ると田植え機に乗っているのも黒い影だった。ぼんやりとした黒色の影はどんなに目を凝らしても影法師。
 声にならない声が喉の奥でカラカラと乾いて消えた。

「田植えの時期は血が騷ぐらしいですよ」

 魔女は背中を丸くして小さくなって座っていた。

「この季節になるとどこからか集まってくるんです。体が覚えているらしいです」

そんなことは重要ではない。人間の形をした人間ではない何かが田んぼにたくさん集まって、人間のように動いている。

(あれは何?)

 聞きたいけれど聞けない。聞いてはいけないことなのではないだろうか。

「あれがいるうちは外へ出てはいけません」

「どうしてですか」

 恐ろしくて出る気にはなれないけれど。

「連れて行かれてしまうからです」

 どこへ?
 魔女はじっと窓の外を見ている。私もそちらに視線を向けると、田んぼの向こう、遠くの方で電車が走っている。車両四両の四角い窓に白い灯りが煌々と光っている。

「電車が通っているんですね」

「夜だけですけどね」

「違う街があるんですか?」

「ええ。でも絶対に乗ってはいけません」

「ーーどうしてですか」

 答えはわかっていた。

「帰って来れなくなるからです」

 ここはそういう場所なのか。田植え機を操る影。何人かが一列に並んで腰を屈めて田植えをする影。水路に群れている影。この季節になると夜な夜な集まってくる影。
 顔は見えない。何を言っているのかはわからないけれど、活気があるのは伝わってくる。遠くを走る電車なんて見向きもしない影たち。

「すごいですね」

 魔女は首を傾げる。

「何がすごいんです?」

「影の方々です」

 影になって夜な夜な集まって仕事をしたいと思えるだろうか。血が騒ぐことなんてあるだろうか。今の職場では考えられない。

「あんなふうに仕事してない」

 私なんてむしろ、仕事のことなど忘れてしまいたい。誇りを持って始めた仕事なのに、役に立っているのか、都合よく使われているのかわからなくなっていた。もっと勉強して上を目指す気持ちにもなれない。

「お腹、空いてます?」

 ふと、魔女が言う。

「カップ麺でよければ食べませんか?」

 そういえば夕飯を食べていない。

「行きましょう」

 魔女はロフトから飛び降りた。
 翼は開かず、子どもみたいに一息で。ここではそれでいいのだろう。今は私もそれでいいのかもしれない。もっと身軽に飛び降りたって、いいのかもしれない。

「あなたははしごを使ってくださいね」

 立ち上がりかけた私に、ロフトの下から魔女がたしなめた。

 それから、私は魔女が準備してくれたカップ麺をすすり、シャワーを借りて、再びソファで眠ることになった。不思議と安心して目を閉じる。

「7日以上ここにいたらどうなるんですか?」

 きこうと思ったけど、聞けなかった。きっと、「帰れなくなる。戻れなくなる」 そう言われるだけだ。

(戻りたくもない)

 お泊りセットを持ってきて正解だった。根岸はこうなることを予想していたと思うと腹が立つ。何も考えていなくて、思いつきで言ったのかもしれない。それも腹が立つ。鱗の薬の効果なのか、確実に嫌なことを私は思い出していた。



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