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『龍にはならない』第10話 嫌なこと思い出した②毒母編


 あの日。青い入院着の父は面会室から病室に戻った。手術を終えた父の、頼りなく、淋しい背中が見えなくなって、痛々しい姿を見なくていいことに少しホッとしてしまった。

 父を見送って、今後の話し合いも兼ねて病院内の喫茶店で妹と私と母の三人でお茶をすることになった。

「退院の日はユッコちゃんに来てもらうから、お姉ちゃんは心配しないでね」

 カフェオレのカップを両手でも持つ母が言った。妹(ユッコ)が「任せて」といって笑う。

「ありがとう。それで、退院したらどうするの?」

 母に問いかける。すると、助けを求めるように視線を妹に移し、わざとらしく溜息をついた。

「別に何も決めてないよ?」

 子どもたちも独立していたから、母は実家の一軒家に二人暮らしだった。

「私、実家に帰ろうか。グループホームに勤めているし、少しは役に立つかもしれないよ?」

「お姉ちゃんが?」

「うん。母さん一人だと色々大変だろうし」

「まあねぇ、気持ちだけにしておく」

 母は再び妹に視線を移した。妹は首を傾げている。

「何? 何が言いたいの?」

「いやね、お姉ちゃんは、ちょっとねぇ」

「なんで?」

「運転も下手だし、口うるさいし、お父さんが嫌がりそう」

「なにそのひどい言い草」

「だって。家を出てからあまり帰ってこなかったくせに、こちらが弱ったらすり寄ってきた感じがーーお父さんが、ね。そう言ったのよ。お金目当てみたいで嫌みたいなのよ」

 私は言葉もなかった。確かに、子どもを連れて帰省する妹と比べれば帰る機会は減っていたけれど、弱ったからすり寄るなんて言いがかりをつけられるとは思わなかった。

 母は続ける。

「あなたって独身で仕事も給料安いし。こちらが弱っている時に恩を着せて、スネをかじるつもりでしょ?」

「そんなわけないよ」

 すかさず妹が反論してくれたが、母はもちろん聞く耳を持たなかった。

「でも、料理も下手で、口だけで手伝いもあんまりしてくれないし、喋っていても面白くないからユッコちゃんにお願いしたいのよ」

「最低だね」

 耐えきれずにぼそりと言い返した。母を見つめたままの妹は汚いものを見るように顔を歪ませていた。テーブルの上においた妹の手が震えている。私以上に憤慨しているのかもしれない。
 
 私は慣れている。

「やだ。怒ることないのに。だからお姉ちゃんは短気で嫌なのよ」

 母は堂々と不機嫌な顔をしてみせる。自分が何を言っているのかわからないのだろう。暴言は子どもの頃からよくあった。それでも、前まではそのまま受け止め、母ではなく自分が悪いのだと思っていた。前までは。大人になるまでは。

「最低なこと言っているのわかっている?」

 今度は妹が言い返した。

「えー、そう? ごめんね。どちらにしても、お姉ちゃんは私たちのことより自分のことを考えたほうがいいと思うのよ。誰に似たのか知らないけど、見た目も悪いんだから。もっと努力しないと結婚できないわよ」

 妹も私もしばらく言葉が出なかった。

「何? どうして黙っているの?」

 母は何故私たちが呆れているか気付いていない。

「お姉ちゃん、帰ろう」

「ユッコちゃん。ちょっと、何言っているの?」

「先に帰る」

「でも、お母さんが帰れなくなっちゃうよ」

「自分でタクシー呼べばいいでしょ。運転できないからって、もう都合よく娘を頼らないで」

「ユッコちゃん、どうしたの?」

 妹は席を立ち、さっさと喫茶店を出ていってしまった。二人きりになった途端、母は大きくてわざとらしいため息を吐き出した。

「結婚して変わっちゃったよね、ユッコは。あっちのお義母さんに感化されちゃったのかな?」

 ここにきて妹の義理の母に責任を擦り付けている。呆れて言葉にならない。体を無意味にクネクネさせて、

「お姉ちゃん、お金目当てじゃないなら一緒に住もうか? 御飯作るよ?」

何も言わない私をうかがうように言った。今更何を言っているのか。

「ごめんね、お母さん。ユッコを送ってくる」

 テーブルにお金を置くと、私は立ち上がる。

「私が会計するの? お姉ちゃんやってよ」

 今の今まで媚びていた母は、瞬間的に不機嫌になる。私はそれを無視して喫茶店を出ていった。

 病院のエントランスにいた妹と車で帰った。助手席で妹は泣いていた。

「お父さんが病気になって、おかしくなったのかな」

 妹は優しいから、結局は母を思いやる。でも、私には小さい頃から変わりない、母の挙動だった。

 後日。母から、2階から飛び降りたという連絡が来た。慌ててかけつけると、母は無傷だった。「何となく足首が痛いの」「何だか痛いの」と、うるさいくらい繰り返すから、医者に連れて行った。

「2階ではなく、1階の窓から飛び降りたのでは?」

 主治医にはそう言われた。

「ユッコちゃんに裏切られて悲しかった」

 と言っている。私の話は出てこなかった。感謝も謝罪も労いの言葉もない。
 あれ以来、送迎は私がしている。父が退院の時も、通院の際も。父が退院し、話し相手もやることも増えた母は嘘みたいにイキイキしている。イキイキと父の悪口を言う。私は必要なさそうなのに、運転手として呼ばれる。
 母に会うのはいつだって憂鬱だった。でも、断ると妹に連絡が行きそうだった。会わせたくなかった。だから、昨日も父の通院のための病院送迎を済ませ、その後に根岸に会いに行った。無償で働く運転手としか見ていない母にあった後はいつだって最悪な気分だ。だから、小川を渡った後、私は帰れなくなったって良かった。帰れなくてホッとしたのだ。

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