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『龍にはならない』第6話 龍と決意

 魔女は庭に降り立って、髪をほどいた。私はその後姿を見つめる。午後の涼しい風が吹いて、魔女の髪を揺らした。その髪はみるみるうちに、根本から色素を失っていく。同時に、額にも頬にも、首も、腕も、透明な人の爪ほどの大きさの鱗が次々と皮膚の中から浮きあがり、全身を覆っていく。
 魔女は龍へと変化している。
 白い髪と鱗は陽の光を受けて、水っぽくて艶やなその表面を淡い赤や黄、緑や青や紫に忙しなく変化させている。
 魔女がわずかにうつむくと、突如背中からは巨大な翼が生まれた。その衝撃は纏っていた空気を撫ぜていく。 
 どこに隠していたのか。皮膚同じ虹色の鱗がびっしりと生えてた翼は、傘が開くみたいに一瞬で開いた。風を受けて柔らかに揺れる様子は鱗というより羽根のようにも見えた。

「すごいですね」

 私は声を絞り出す。
 鱗に覆われ、翼を生やした魔女は、かろうじて人の形を保っていた。その姿に惚けている私を見て、魔女は少し笑った気がした。

「これから空を飛んで、鱗を降らせます。それが薬です。落ちてきた鱗を集めてください。たべてみてもいい。5枚くらい食べれば完全に記憶は戻るでしょう」

「わかりました」

 あっさり了承した私をいぶかしがってか、首を傾げて魔女は訊ねた。

「怖くないんですか?」

 不思議なことに怖くはなかった。

「驚きました」

 怖くはないけれど呆気にとられていた。それなのに平静を装ってしまうのは、驚いたことへの負け惜しみなのだろうか。

「龍というより、ハーピーみたいですね」

 私が言うと、魔女は初めて不服そうに顔をしかめた。

「私は臭くないですよ」

 プイっと横を向く。

「風呂には入ってますし、汚いつもりはありません」

 意外な反応だった。

「ハーピーって汚いんですか?」

「昔に読んだギリシャ神話の本にはそう書いてありましたよ。非常に臭いのだと」

「そうなんだ……」

「だから、せめてセイレーンにしてください」

「セイレーンって鳥でしたっけ?」

「鳥で、後に魚では?」

「そうなんですか?」

 ハーピーを出しておいて、私はギリシャ神話にそこまで詳しくない。

「セイレーンは臭くないんですか?」

「どうでしょうか」

 答えられない魔女も、すごく詳しいというわけではなさそうだ。思わずお互いに顔を見合わせる。

「魔女さんはどちらでもないので、どちらが臭くてもいいです」

 正確な答えは出せないし、どっちでもよかった。

「私は臭くないか?」

「臭くない」

 むしろ、いい匂いだ。魔女は鱗に覆われた口元を少しほころばせた。

「じゃあ、行ってきます」

 ハーピーセイレーンな魔女は翼を広げ、空へと舞い上がる。

(すごい)

 その姿はたしかに荘厳な虹色の龍だ。田んぼが水鏡になって、青い空と悠悠と泳ぐ龍の姿を映し出している。思わず見惚れてしまう。
(龍になって空を飛べたら気持ちがいいのだろうなぁ)
 ほぼ夢心地で見上げていると、龍の泳ぐ空から何かがパラパラとなにかが降ってきた。

(これが鱗?)

 手に取るとガラスのつけ爪のようなものが落ちてきている。

「鱗だよ」

 後ろから声がした。振り返ると、見覚えのある、背の高い男が立っていた。

「根岸」

 根岸は当然のように立っていた。私を置き去りにしたことも忘れたのだろうか。悪びれもしない。いかにも好青年気取りな見た目の良さに、急に現実が押し寄せる。今更何をしにきたのだろう。何か事情があったのかもしれないけれど、ここまできたらどうでもよかった。龍になった魔女を見上げ、ただ眺めていたかった。

「鱗は薬だよ。五枚くらい食べれば効果あり。完全に記憶は戻るよ」

(魔女に聞いたよ)

 根岸の言葉を聞き流しつつ、肩に貼り付いた透明な鱗をを手に取る。私の手のひらは、すでに全体が青く染まっていた。

(思い出したくない)

 それでも、思い出さないといけない。異形の龍にはなりたくなかった。

(仕方ないか)

 観念して鱗を口に放り込む。思い切って奥歯で噛むと、パリリといい音をして砕けた。

「甘くて美味しい」

 甘くてシャリシャリ、もしくはジャリジャリとした食感。金平糖みたいな味だ。しかし、甘みの幸福感は一瞬で終わった。
 脳味噌に誰かの声が突き刺さる。

ーー大丈夫だよ。藤井さん、しっかりしてるし、真面目だし

ーー藤井さん、大丈夫だよね? 

ーーどうせ暇だから大丈夫よね? 
 
 1枚食べただけで、忘れていた記憶が次々と脳裏を埋めていく。
 私が帰りたくない理由なんて大した事ない。
 多分大丈夫。大丈夫。
 あまい、あまい
 もっとつらい思いをしている人はたくさんいる。それなのに、こんな些細なことで逃げ出すの?
 これは甘えだ。
 逃げだ。
  

「食べないの?」

 根岸に言われて我に返った。

「もっと食べなよ。戻れないよ」

「戻りたくないんです」

 暢気な顔で勧めてくるから、つい強めに言い返した。

「帰りたくないんです」

 根岸は目を丸くした。

「えっ、どうして?」

「嫌なんです。元の世界」

「仕事も?」

「もちろんです」

「あんなに一生懸命やっていたのに?」

「一生懸命やるのは仕事だから当たり前だと思っていたんですが、もう無理です」

「でも、利用者さんも職員も藤井さんのこと頼りにしているよ。いないと困るよ」

「困らないです」

「困るって。藤井さんがいないと困るよ」

「困りません。利用者さんは私でなくても大丈夫です。他にもっと優秀で愛想もいい職員はいます。職員は、出勤を押し付ける人がいなくて困るだけです」 
 
 つい深い溜め息が漏れ出た。

「誰もでられない日、いつも私が一番に休日出勤を頼まれる。苦痛でしかない。だいたい、仕事内容も好きじゃないのに」

 人がいない日、急に休みがでた日、私がいつもその人の代わりに出勤する。持ちつ持たれつとは思っていたけど、他の人が出勤するのを見たことも聞いたこともない。

「しかも、他の職員が二人でこなす仕事を一人でやりながら、他の職員がやりたがらない食事づくりと電話対応も任されているの、知っているでしょ?」

「それは藤井さんが仕事できるから任せているだけだよ」

「できたとしても、押し付けていいわけじゃない。そもそも好きじゃない。ああ、やっぱり戻りたくない」

「ちゃんと言わないのがいけないんじゃないか」

「じゃあ、今言う。すごく嫌。それに、休日出勤とか仕事内容のフォローが入ったとしても嫌」

「で、でも、ご家族は? 仕事はともかく、家族は戻らないと心配するんじゃない?」

 全く、根岸はくだらないことを訊ねる。無意識に消していた怒りが、忘れた記憶と一緒に身体に戻ってきたのかもしれない。見たくないから隠していた感情。嫌われたくないから目をそらした怒り。

「大学通わせたのに安月給なんて。恥ずかしい。お姉ちゃんは結婚も見込めないのに。妹は手に職があって、高学歴高収入の夫もいるのに。お金返して欲しいくらい。だから、病院の送り迎えくらいしなさいよ。見た目が悪いからどうせ結婚も望めないんだから」

「はい? なにそれ?」

「母から私への言葉です。帰りたいと思いますか?」

 根岸が顔を曇らせる。

「でも、お母さんでしょ?」

「母親ですよ。父親が病気して色々大変だろうから実家に戻ろうか?って聞いたら、どうせお金目当てでしょ?って本気で返してくるような人だけど母親ですよ。仕事柄、手伝えることもあると思って言ったんだけどね」

「オォ、ウエアエ」

 根岸の母親像の中に、私の母のようなタイプはいないのだろう。理解が追いつかずバグを起こしている。
 その間も龍は上空を旋回し、キラキラ光る鱗を降らせていた。メルヘンな景色をバックに絵になる男根岸。苛つかせるのがうまい。

「でも、ほら、友だちとか、彼氏は?」

「彼氏はいません。友だちは結婚して疎遠になりました。残ったのは毒みたいな家族と仕事。嫌になりました。帰りたくないです」

「そういわずに」

 ヘラヘラと引き止める根岸にも腹が立ってきた。

「何故帰ることを進めるんですか? 根岸が困るから?」

「藤井さんの身の安全を思ってだよ」

「身の安全は嘘ですね。根岸だって私を利用しましたから」

「そんなことないですよ」

 置き去りにした割に根岸は白々しい。

「山川さんと同じシフトが良いからって勝手にシフトをチェンジしましたよね。」

 山川さんは、同じグループホームで働く若い女性スタッフだ。笑顔が可愛くて、働き者で、謙虚で、気配りができる彼女は、利用者さんにもスタッフにも人気がある。根岸が好きになるのもわかる。でも、それと仕事は別だ。

「何度も何度もそっちの都合でシフトを変えて、迷惑です。私なら文句を言わないと思ったんですね?」

「それは、その、そうだけど……」

「今日だって、山川さんと約束があるから私を置いて帰ったんでしょ? 私は死ぬかもしれない状況だったのに」

 根岸はその場に座り込み、膝を抱えた。

「そうです! 山川さんと約束していました! 告白しました! そして振られました!」

 突然、叫ぶ。

「ねぇ、なんで? 俺はなんで振られたの?」

 そんなこと、私は知らない。

「俺、明るいし、背高いし、いいヤツなのに」

「そういうところです」

 思わず本音が漏れ出てしまった。

「とにかく、私は帰らない。ここにいたい」

 しゃがみこんでメソメソしている根岸の後頭部に向かって言うと、

「それなら、ここにいればいい」

 後ろから声がした。振り返ると魔女は龍の姿のまま立っていた。


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