『龍にはならない』第12話 仕事を辞めたい
次に起きると昼になっていた。カーテンは開け放たれ、明るい青空が見える。
(どれだけ眠った?)
自分の体の具合が心配になる。こんなに寝たのは初めてかもしれない。眠りこけたせいで、もう明日のことを考えないといけない。しかも根岸にぶちまけたことを今更思い出してしまった。仕事が嫌いだとわめいてしまった。
「ああ、どうしよう」
ここへ来る前のことを思い出してしまったから、もとの場所へ帰るのがものすごく嫌だ。仕事も、家族も。一人暮らしの自分の家に戻るのも。
(休もう)
もう一日体調不良で休もう。今日はさっさと連絡をしてしまおう。そう思ったときだった。
「お邪魔しますよ」
外から声がすると同時にガラガラと窓が開いて、清水和馬が入ってきた。
「もしや、まだ寝てた?」
「今起きました」
「もう午後1時だよ」
もう午後なのか。早く電話をしないといけない。
「そういえば魔女さんは?」
部屋を見渡しても、どこにも姿が見えない。
「仕事に行った。私は今日休み」
清水和馬はキッチンカウンターにビニール袋を置く。
「コンビニで昼飯買ってきたけど、食べる?」
そう言って、ニカッと笑う。また食べ物を持ってきてくれたみたいだ。
「ありがとうございます。でも、その前に職場に電話しないと」
和馬は目を丸くした。
「なんで?」
「明日も休むからです」
「大丈夫だよ。帰れるよ。きっと夕方には根岸が迎えに来るよ」
「でも断ります」
「なんで?」
また目をパチクリさせる。
「青い指は治ったのに?」
まだ薄っすらと青い手を慌てて隠した。返す言葉もない。仕事したくないし、帰りたくない。親にも会いたくない。だから休もうという考えに情けなくなった。
「……そうですね。帰ります。子どもみたいですね。うん。帰ります」
たっぷり休んだのだから、根岸が迎えに来たら、帰ろう。もと来た道を戻って、いつもの生活に。電話で嘘を付く必要もなくなる。そう思い直したはずだった。
「仕事、辞めたいんです」
気づくと和馬の前で本音を口走っていた。
「おお。辞めたら?」
和馬はサラリと答える。
「簡単に言いますね」
「だって辞めたいんでしょ?」
「辞められないんです」
「なんで辞めないの?」
「資格あるし。家賃払えなくなるから」
「他には理由ないの?」
「他?」
他って何なんだろう。金銭面に余裕がなくて、資格のある仕事をしていたら、誰でも辞められないと納得すると思っていた。
「藤井さんは、やってる仕事が楽しくって辞められないってこと?」
「全然楽しくない」
即答していた。仕事ができないわけではない。勉強して、経験して身につけたたくさんのことがあって、やれるにはやれるけど、山川さんやパートさんたちみたいに利用者さんと楽しくお喋りもできないし、季節事のイベント企画なんて嫌いだった。何でみんな楽しそうにできるのか不思議だった。
「じゃあ、何で続けてるの? 好きでやっている人たくさんいそうだけど」
「だから、家賃のため」
そうだ。私は割り切っている。お金のため。居場所のため。断れないのは自分の弱くてだめな性格のせい。
「それに、職場にそこまで悪い人はいないし、辞めるなんて今更なんです」
「なんだ。面倒くさいのか」
和馬の言葉が胸の真ん中をグサリと刺した。割り切っているはずなのに、「面倒くさいのか」の一言は胸に刺さったままざわめき続ける。
(腹立つ)
実家に帰りたくない私は、職を失うわけにはいかないのだから。
「でも、悪くはないんですよ。攻撃してくる人とかいないし」
面倒な仕事は押し付けられるし、休日出勤ばかりだけど、実家にはなかった居場所は得られた。資格を取って、グループホームの一員になれたことは嬉しかった。
「じゃあ、辞めなければいいんじゃない?」
「だから、辞めたいけど辞められないんです」
和馬は首を傾げる。納得はしていないようだった。
「好きな人は?」
「好きな人?」
「私には、職場に師匠と弟弟子みたいな人がいるから」
そう言う和馬の目はキラキラしていた。
「自分がもっとジジイになった時、師匠みたいな感じになりたい。背中がムキムキのおじいさん、かっこいいよ」
かっこいい師匠がいるなんて羨ましい。心から思う。
「師匠がいるなんて、なんの仕事をしているんですか」
「それは言えないなぁ」
「なんでよ」
和馬は笑ってごまかした。その笑みの中には、真面目なことを話してしまったことへの照れが含まれている。たぶん、その師匠のことが本当に好きなんだろう。
「藤井さんは、ババアになった時、何していたい?」
ふいに清水和馬は訊ねた。自分から話題をそらしたいのかもしれないけれど、私は真剣に考えてみる。
(もっとババアになった時)
今の仕事を続けているのだろうか。結婚については考えられない。
「山川さんになりたい」
何故か山川さんの名前が口からポロリとこぼれた。
「山川さんって誰?」
和馬は首を傾げている。
「職場にいます。かわいくて仕事もできる人です」
山川さんは理想みたいな人だ。利用者さんにも明るく対応できて、必要なときは厳しくて。いつもキラキラしている。私服もオシャレで、見た目もかわいい。
「きっと清水さんも好きだと思います」
和馬は大仰に顔を歪める。
「やめてよ」
「なんでですか」
「藤井さんが山川さんって人になったら、嫌だよ」
「あなたが山川さんに会ったことないからです。会えばわかります」
「やだやだやだ」
駄々っ子みたいなことを言い始めた。
「その人は部屋汚いときっと怒るもん」
「普通怒るのでは?」
「母親が寄越した薬瓶投げてたらきっと怒るもん」
「それは、私もびっくりしましたよ?」
清水和馬は大きく、大きくため息をつく。わかってないなぁと私をじっと見つめる。
「あなたじゃないと、泣いてくれない。きっと」
和馬の目がキラリと光った。私と同じ成分の涙が瞳に隠れていた。
「ーーそっか」
あれは薬の瓶を投げた時だ。母親の自己満足のために送られてきた薬を投げた時。「薬なんていらねぇ、しゃらくせえ」って捨てた時。私は泣いたんだ。
山川さんは泣くだろうか。
ーーでも、きっと、山川さんのほうが上手くできる。泣こうが、泣くまいが、あなたよりも清水和馬に優しくできる。好かれる。結局、山川さんのような人が選ばれる。お前なんていらない人間だ。
心の声は言う。ミシミシと胸が痛い。でも、そんなことどうでもいい。
「ありがとう」
清水和馬に言った。私はたぶん嬉しかったんだと思う。なんだか、目が覚めた。
「電話してくる」
スマホを握りしめ、玄関へ向かった。今グループホームは、昼食が終わって入浴前の、少しだけ暇な時間帯だ。電話をかけると狙った通り施設長が出た。
「腹痛が良くならないのでしばらくお休みします」
「しばらく?」
施設長の声が曇る。
「胃腸炎です。医者には水曜日まで様子を見て、治らなかったらまた受診するように言われています」
そんな嘘が出るのが苦しい。
「そうか。そんなにひどいの?」
「今は無理です。医者は症状が治まったら出勤していいけど、職種的に木曜日くらいからの出勤をおすすめされました」
グループホームの利用者さんにうつさないようにしなくてはいけないから。休みやすい嘘をついてしまった。
「そうですか……それなら、木曜日までお休みにしましょう」
「ご迷惑おかけします」
「うん。お大事にね」
静かに電話を切る。
施設長に嘘をついて休むことにしてしまった。罪悪感はある。たんまりある。今までなんの文句もなく言われた通りに働き、快く引き受けた休日出勤の回数を考えると、施設長とて何も言えないのかもしれない。それでも罪悪感はひどい。
「よし! 辞めよう!」
山川さんが理想なんて逃げだったんだ。無責任なだけだ。ケアリーダーには山川さんがやればいい、と思っていたのは自分がやりたくないから。面倒くさいから。
(逃げてた)
主張して波風立てるのが面倒くさいから、断ればいい休日出勤も断らないし、辞めたいのに辞めない。無理してたくさん仕事をしていれば、頑張っているように見えて、それなりに居場所もできるからそれでいいと思っていた。
そして、波風立てなくてはならないことは山川さんに押し付ける。理想像まで押し付ける。
だから、私はいつも一人なんだ。もっとババアになった時も、いろんな意味で一人だ。逃げているから。だから、私は帰ろう。やめるために帰るんだ。
「なんで木曜日なんですか?」
突如、玄関が開いて魔女が現れる。あまりに突然で心臓が飛び出るかと思った。
「びっくりした」
「それは失礼しました。仕事の休憩時間に帰ってきました」
驚く私とは違って、魔女は落ち着き払ったままこちらを見つめている。
「それで、何故木曜日なのですか?」
施設長との会話を聞いていたみたいだ。
「7日間はここにいても大丈夫です。そうすると、金曜の朝まではここに留まれます。それなのに早めに帰るのは何故ですか?」
一瞬、怒っているのかと思った。でも、そうでもない。いや、そうかもしれない。とにかく魔女の感情がよくわからない。
「嘘で休むのにも限界がありますから」
答えると、魔女は小さくうなずいた。
「なるほど」
そして、指折り数える。
「今日を入れて、日、月、火、水の残り4日間、どうしますか?」
「どう……?」
何も考えていなかった。
「あなたが何も決めていないなら、ここにいてもらえますか?」
「ここに?」
「何もしなくていいから、ここにいてください」
「いいんですか?」
居させてもらえるなら嬉しい。
「はい」
魔女はニコリともしていない。困り顔でもない。無表情そのものだ。真意が読み取れない。
「昼飯を食べます。あなたもリビングへ。玄関から出ていかないように」
理由を聞く前に、魔女はリビングへ行ってしまう。
「かっちゃん、何故いる」
当たり前のようにキッチンカウンターに立っている和馬に訊ねる声が聞こえる。
「藤井さんにお昼ご飯のお届け」
「私の分は?」
「あるよ~」
そういえば、お腹が空いている。たっぷり眠って、仕事を休むと決めたら更に食欲が湧いてきた。魔女の後を追って、和馬の買ってきたコンビニランチをいただくことにした。
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