『龍にはならない』第7話 眠りにつくまで
「話は聞きました。大丈夫です。今日はうちに泊まっていきなさい」
龍になった魔女の声は変わらず、少し低くて、澄んでいて、穏やかで、優しかった。
「いいの?」
私の代わりに根岸が食い込んできた。いつになく真剣な顔をしている。龍になった魔女の姿に驚くことなく自然に話すところを見ると、やっぱり根岸はこちらの世界をよく知る人間なのだろう。
「やばいよ。狭間の世界だよ、ここ」
「七日以内なら大丈夫」
魔女はしれっと答える。鬼気迫った根岸に対して、平気な顔だった。
「大丈夫って、ほんと?」
根岸は眉を寄せたまま黙り込んでいる。職場で一番明るい男の深刻な顔を見ていたら、何も知らない私は不安になってしまう。
「大丈夫だよ。もちろん、ちゃんともと来た小川を渡って帰るのが条件。違う場所からの出入りは空間に齟齬ができるかもしれないから。彼女の肉体に危険が及ぶ可能性がある。わかっているな、根岸」
「齟齬?」
私が視線を向けると根岸は素早く目をそらした。
「つまり、何も知らない人間を放置していなくなることは大変危険ということ。今日みたいに」
魔女に見据えられた根岸がシュンとなって下を向いた。
「まあ、今は鱗を拾おう」
魔女はしゃがみこんで鱗を見つめた。
「私はうまく拾えないから、二人も集めてほしい」
魔女の手は鱗に覆われ、指先は鋭くて長くて、いかにも硬そうな爪が生えていた。小さいものを拾うには向かなそうだ。
「わかりました」
龍の落とした鱗(薬)を集めるために、私は田んぼの周りをしゃがみながらうろうろすることになった。水に落ちたものは解けてしまったのか既にない。魔女も体を縮めながらゆっくり、ゆっくりと拾い上げている。
「土が着いていても大丈夫ですか?」
「洗って干して、その後瓶に詰めるから大丈夫」
魔女は樹のない声で答えた。拾いにくい手で掴んた鱗を落とさないよう集中しているからそれどころではないようだ。少し離れたところで鱗を拾っていた根岸がこちらに駆け寄る。
「本当にいいの?」
背の高い根岸は私を見下ろしながら、必死な顔で問いかけてきた。
「仕事はどうするの?」
「施設長には明日電話する」
「なんて?」
「体調不良」
「職場が荒れるなぁ」
根岸は他人事のように言う。
「根岸が代わりに出るよね?」
根岸はぽかんと口を開けた。
「えっ、出れないよ。なんで俺なの?」
「ここに連れてきたのは根岸だから」
「そうだけど無理だよ。それに、ここにいると決めたのは藤井さんだよ?」
なんだか焦っている。明日は出たくないようだ。
「そうだね。決めたのは私だし。根岸にも用事があるよね」
でも、少しだけイラッとする。休日出勤を押し付けられずに済みそうになった途端、根岸がやたらとヘラヘラ頷くのもイラッとする。
でも、どうしてだろう。追求する気にもなれない。
「わかった。根岸が出てくれないなら山川さんに相談する」
「出ます」
突然、根岸が身を乗り出した。
「さっきは出ないと言ったのに、今度は何?」
「藤井さんと二人で車乗っているところを見られているんだよ」
「二人で乗っていたから何? 私のキャラ的にすぐに仲は疑われないよ」
「そう。そうなんだよ。藤井さん相手に変な関係になるはずないって説明して、誤解は解けたんだけど……」
だいぶ失礼な言われようだけど、ここはスルーする。
「だけど、どうしたの?」
「藤井さんに無理やり迫られて仕方なく送っていったってことになっているんだ。藤井さんはストーカーだって」
「はぁ?」
「だから、山川さんと藤井さんが直接話すのはちょっと」
信じられない。人を勝手にストーカーにしやがった。無意識に人を見下している。でも、そのことに気づいてもいない。
「だから、明日は出勤してほしい」
「根岸の気持ちはよくわかりました」
私は微笑んだ。こんな時には我ながら驚くほどに冷たく微笑めるものなのだなぁと、しみじみと思う。
これ以上根岸と話を続けるとイライラが爆発しそうなので、私は魔女の下へと向かった。
根岸は私が納得してその場を離れたものと勘違いをしたのか、問いただしもしなかったし、追いかけても来なかった。ただご機嫌に鱗を拾っている。
(帰らないけどね)
龍の姿のままの魔女はそばに来た私に気づくことなく、真剣に鱗拾いを続けていた。
「元の姿に戻らないんですか?」
声を掛けるとゆっくり立ち上がり、振り返った。それから魔女はにわかに顔を歪ませてから、寂しそうに笑った。鱗のせいで笑っている顔も少し硬い。
「一度変身すると、上手いこと戻れないんです」
「えっ! どのくらい戻れないんですか?」
「わからない」
言葉が出なかった。私の薬のために大変なことをさせてしまった。
「ごめんなさい」
思わず口からこぼれる。
「謝らないでください。そのうち戻るんで」
淡々と答えて、魔女は腰を伸ばした。龍の尻尾が左右にゆっくりと揺れた。
「家に戻りましょう。そろそろ日が暮れます。危険ですから」
「危険?」
「ここは、狭間の世界ですからね」
魔女の声は終始優しく、穏やかだったけれど、この時の声だけは、少し陰を含んでいたような気がする。
それから、拾った鱗を魔女に渡し、根岸も一緒に家の中へ戻る。魔女はいくつかの鱗を水で洗い、キッチンペーパーで水気を吸い取ると、私に渡す。
「これだけ食べれば青い爪はもとに戻ります。記憶は戻ります」
鱗を食べて思い出したくない。とは言えない。大人しく受け取る。
「食べたらソファで休んでいてくださいね」
台所で鱗を洗う魔女に言われ、私は遠慮なく部屋の真ん中にあるソファに座る。根岸はトイレに行くと言ってリビングから出ていっていない。クッションは程よい柔らかさ。背もたれは程よい傾斜。
思い切って鱗を口に入れた。じゃりじゃりとした歯ざわり。優しく甘い。
(これは……)
きっと目を閉じたら寝てしまう。ここまでの非常識なで不可思議な出来事から得た疲れが体にのしかかった。
「寝てもいいですよ」
魔女の声が聞こえた。
「そんなわけには」
そう言いつつ、私はソファに横になってしまった。何か思い出す前に寝てしまいたい。
(だめだ)
抗わないと。この場所が安心かもまだわからない。でも、瞼の裏にはここにあるはずのない職場の風景が映し出されていた。半分は覚醒しているけれど半分はすでに眠りの世界に入っているから、夢の始まりの画像が入り混じっているらしい。残りの意識で目を開こうとしたのの夢かどうかわからない。気づくと目を閉じ、完全な眠りに落ちていた。
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