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県立高校「出前講座」講師をお断りしました

子ども時代を「高度成長期」に過ごし、東京での旅行会社社員時代は「バブルまっ只中」、そんな私にとって今の日本経済の凋落ぶりは「信じられない」というか「受け止めきれない」というか、悲しくも腹立たしくもあります。

たまたま今は、社会科の教員もやっており、「経済がうまくいっているとは、お金がしっかり動いている(回っている)状態」ということを伝えています。
一方で、「ボランティア」を普及・育成・派遣するNPO団体の事務局長もやっています。私は「タダ(無償)の力」を信じている1人でもあります。

先日、会津地方のA高校に、私どもの「県から委託を受けて実施しているスポーツボランティア研修会を貴校で開催しませんか?」(もちろんすべて経費はルーターズ負担)と持ち掛けたところ、「残念ながら一年間のカリキュラムはすでに決まっていて難しいです。ところで、こちらが総合の探求科目として出前講座を行う日があります。その日にスポーツボランティアについての講座を担当してもらえませんか?」とのことでした。
私たちが「やらねばならないこと」とは違うので、即答はできませんでしたが、以前同講座を別の高校で担当したこともあり、内容については想像ができました。

数日後、「地域コーディネーター」と名乗る一般社団法人の方からA高校の出前講座の件で電話が入りました。
「高校から委託を受け、この事業を担当しています。この事業は講師の方に旅費も謝金も出ないのですが、お受けいただけるということでよろしいでしょうか?」
丁寧な言葉遣いだけれど、内容には驚きました。
別の高校で担当した際には、旅費も謝金もいただきました。
学校の授業を「一般社団法人に外部委託」し、講師には「旅費謝金ゼロ」とは驚きです。
「高校生にスポーツボランティアについて伝える貴重な機会ではありますが、さすがに自腹を切ってという気にはならないので、ルーターズの予算が出せるか理事会に諮って返答します」としました。

私はお金持ちでも有名人でもありません。スポーツボランティアについて普及育成するという使命を背負った団体の事務局長ではありますが、特に縁もゆかりもない高校で、自腹で授業をする必然性があるでしょうか?
授業という責任を果たすには準備にそれなりの時間とエネルギーを使いますし、会津までいくとなれば1日がかり、旅費もそれなりにかかります。

「もし無理だったら遠慮なくお断りくださいね。失礼なお願いをしているのは承知の上ですから」と言ってはくれるものの、なんだか腑に落ちない。

「ボランティア」という言葉は、場合によってはとても聞こえの良いものだけれど、本来他人に何かをやってもらうにはそれなりのお金がかかるのが当たり前だ。お金が動かない(回らない)社会は経済が停滞する。特に公的機関であれば、きちんとお金を動かす(支払う)ことをしなければならないのではないだろうか。

もやもやした状態で理事会に諮ったところ、案の定「一つの高校だけ特別にこちらで旅費謝金をもつというのは、公平性に欠け、説明がつかない」という理由でA高校の出前講座に行くことは却下となりました。

私のもやもやの原因は2つあります。
一つは「公的機関(県立高校)が常識的に必要な経費を出さないこと、すなわちお金を回して経済を潤すという意識が欠如していること」に対する失望です。

もう一つは「ボランティアへの無理解」です。

無償で社会的活動を行うということ(=ボランティア)が成り立つのは、
それを行う側と受ける側の間に、互いを思いやったりリスペクトする気持ちがある場合に限られると私は思っています。そんな関係が築けている時、ボランティアのパワーは何倍にも膨れ上がり、底知れぬ効果を生み出します。

A高校が「生徒に対してスポーツボランティアの意義を伝えたい!しかし予算がないのです。なんとか無償でやっていただけませんか」というなら私はやりたいと思ったでしょう。しかし、「出前講座という場を与えるので、やりたければどうですか?お金は出せませんけど」という態度に気持ちが動かなかったのです。

心が動かない場合は当然「お金」で解決するしかありません。お金はみにくいものでも不潔なものでもありません。お金を介在させることで世の中はスムーズに動くのです。お金をいただく以上、私はきちんと有意義な講義をいたします。

今日、私は地域コーディネーターの方にお断りの連絡を入れました。
「あ、そうですか。わかりました。」
あっさりした返事でした。
もやもやはまだ消化しきれていません。

日本の経済に活気がない要因の一つが「ボランティア」?
自分の人生を重ね合わせて、ちょっと虚しい気持ちになりました…。



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