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橋本治「ひらがな日本美術史」第6巻「歌まくら」 エロ本の買い方 非日常的で日常的なもの 

この章は、浮世絵のポルノである。
お子様は見てはいけません。


私はもう大人なので見る。
しっかり見る。
苦手な人は「好き」だけして読まないで下さい笑

春画をこんなにマジマジと見たのは初めてだ。
「ひらがな日本美術史」の中の謂わゆる「エロ」について書かれている章は、他にも第2巻の「小柴垣草子」と「稚児草子」がある。
橋本治はエロについても容赦がない。
「誤魔化す」とか「濁す」とかいうことを一切しない。
「気取ってんじゃねェよ。」である。
さすが橋本治。

一度「ひらがな日本美術史」の第2巻を読んでいて、それをたまたま息子が後ろから覗いて、
「おっふゥ…。」と、声を漏らしたことがあった。
読んでいたのは「稚児草子」の章で、稚児と従者のあられもないシーンを偶然後ろから覗かれたのだ。
「稚児草子」と検索してもらってこの絵を見てもらったら、これがいかに大事故であったか、お分かり頂けると思う。
息子もびっくりしただろう。
「神妙な顔して何を読んでるかと思えば…。」
 以後、オカン腐女子説は確定となった。

春画には「笑い絵」という別名もある。
そこを湾曲に言って、「ワじるし」という言い方もある。
「その後にワイセツ物とされてしまったからワじるし」というのは誤った短絡で、ポルノは「笑い」と結びつくのである。


たしかにオカン腐女子説は笑い話かも知れない。
「稚児草子」は春画ではないが。

20代の頃、私は書店に勤めていた。
まだ若かったが、エロ本を買いに来るお客の挙動には興味があった。
言っちゃ悪いが面白かったのだ。

「世の中はつまらない、セックスをしている時だけが楽しい。」そう思っている人間が、自分の快楽に直結する性表現を見たら、笑うだろう。
たとえば「芸術」なんてものに全然興味のない兄ちゃんが、この本の元になる原稿が掲載された「芸術新潮」のページをペラペラめくっていて、ここに掲載されている図版に行き当たったらどうなるか?
「おっ、ポルノじゃん」と言って笑うだろう。
もちろん笑わない兄ちゃんもいるだろうが。
どういう兄ちゃんが笑って、どういう兄ちゃんが笑わないかと言うと、「女とはいつも平気でやっている」という兄ちゃんが笑う。
「めんど臭いことは"嫌い"、"それ"は好き。
自分の好きな"それ"がここにある。ああ嬉しい」
という笑いである。
あんまりセックス出来ない兄ちゃんは、自分の欲求不満に足を取られて笑えない。
もしかして、ポルノを見て笑わない男は、ポルノの中にさえ、自分の恋人を探そうとしているのかも知れない。

平然とエロ本だけをレジに持って来て、事もなげに精算する人もいれば、何冊かの本にエロ本を紛れ込ませて買って行く人もいる。
エロ本を紛れ込ませているのが、文学の文庫本だったりすると、ほんとに悪いけど可笑しかった。
 これが「ポルノを笑えるか笑えないか」という事と関係あるのかどうかは分からないが、エロというものへの、その人その人のスタンスの違いって、やっぱりあるんだなあと、まだ小娘だった私は心の中でニヤニヤしながら、そんな事を思っていた。
 
エロ本ではなくて、春画の話しだった。

「この世界の片隅に」というアニメ映画がある。
主人公すずのお祖母さんが、すずの縁談の話が出た時、すずのために作っておいた晴れ着を取り出しながら、変な事を言う。
「向こうの家で、祝言あげるじゃろ。
その晩に婿さんが、傘を一本持って来たか、言うてじゃ。
ほしたら、新(にい)なのを一本持ってきました、
言うんで。
ほいで、差してもええかいの、言われたら、どうぞ、言う。ええか。」
すずが「えっ、なんで」と聞くと、お祖母さんは「なんでもじゃ」。
 
私はこの映画が大好きで何度も観たけれど、お祖母さんのこの変なセリフは、なんとなく聞き流していた。
新(にい)も、傘も、メタファーなんだと気づいた時はやっぱり驚いた。
 春画は昔は花嫁道具の中に、ひっそりと入れられていたと聞いた事がある。
この映画は戦時中の設定だから春画なんてない。
これは、お祖母さんからすずへの性教育だったのだ。
主人公のすずは、と言うよりこの時代以前のシロートの女の子たちは、嫁入った先の初夜に何が行われるか、あんまりよく分からなかった。
あんまりよく分からないが、すずのように「ウチは大人になるらしい」ですませていた。
百年にも満たない昔、カタギの女の子たちはまだ、こういう世界にいたのだ。

 春画をよく見てみると、エグいのももちろんあるが、中にはユーモラスなものもあるし、驚いた事にほのぼのしたものまである。
 春画はなぜか局部が拡大されていて、外国人がまず驚くのがコレらしいが、これは多分日本人の絵画鑑賞のやり方が独特だからなんだろう。
春画は屏風や襖に描かれるオートクチュールではなく、量産されるプレタポルテだった。
手に取って、それこそ舐めるように見る。
だから壁になんか貼らない。
屏風に春画なんて描かれていたら、鬱陶しくてやってられない。
まあ、もしかしたらそういう物もあるのかも知れないが。

日本ではなぜかこういうモノが受け継がれるようで、時々グーグル検索のキーワードにどういう反応をしたのか知らないが、ギョッとするような電子マンガの広告が入る事がある。
そこに出てくるマンガの女の子は、奇形的に大きい胸である事が多い。
まるでスイカをふたつ、胸に着けているような女の子の絵を見て、こういうところはやっぱり日本人てDNAレベルで変わらないんだなあ、なんて思ったりする。
言ってみればデフォルメなのだが、日本人は何でも手元に引き寄せて、自分のみたいものをフォーカスする癖があるようだ。
局部とか、オッパイとか。

 「ひらがな日本美術史」で紹介される春画は歌麿で、わたしが浮世絵の中で、断トツで美しいと思うのも歌麿だ。
北斎も英泉も素晴らしいとは思うが、美人画というジャンルの中での歌麿は、有無を言わさぬ熱のようなものがある。
 以前、あるイベントの模擬店でコーヒーショップをする女の子達に頼まれて、看板メニューを描いたことがあった。
その頃私は浮世絵にハマっていたので、歌麿の「難波屋おきた」のパロディーを描いた。

喜多川歌麿筆 「難波屋おきた」

この、おきたちゃんは今で言うカフェのウェイトレスで江戸の男達の憧れのアイドルでもあった。
私はこの子が持っているお茶を、コーヒーカップに持ち替えさせた。
コーヒーカップ以外は歌麿の模写な訳だが、描き始めてすごく後悔した。
なんでこんな事始めてしもたんやろ私は、と。
あの歌麿髷と呼ばれる髪の一筋一筋の線の繊細さは、とても人間技とは思えなかった。
そして、この繊細さと同居する思わずムワッとくるような肉体の熱量。
これを墨と筆で描くんだもんなあ。
気が狂ってるとしか思えなかった。

 その歌麿の春画である。
今回、歌麿の春画をマジマジと見て思った。
この人は必ずしも「女が好きだから」で、絵を描いていた訳ではないんだろうな、と。
少なくとも北斎や英泉よりは「女」に向ける視線は冷たかったんだと思う。
そうじゃなかったらこんな絵は描けない。

喜多川歌麿筆 「歌まくら」

これは積極的に男を求める女と、それにちょっと引く男の絵だ。
あまりよく分からないが、このキスしている男の目。
絶対「早く終わんねぇかなあ。」って言ってる。

 春画は人間の性欲を盛大に表現する絵画だが、歌麿だけはそこに、「いや、相手はどうなの?」
という問いがある。「こんなの嫌だって言ってる相手がいたって、おかしくないよね?」

喜多川歌麿筆 「歌まくら」

毛むくじゃらの男に強姦されかかっている、この女の子の顔。
この機会に他の絵師の春画も色々見てみたけど、こんな顔してる子は他に見つけられなかった。
合意はなかったけど、だんだんよくなってきて、という絵はあったけど、この子の顔は徹底的に相手を嫌がって、必死で抵抗している。
「こういうのがいいんだ。」
という層もあったかも知れないが、この時代にこういう絵の需要ってあったんだろうか。
もしあったなら、他にもたくさん見つかるはずなんだけど。

 歌麿ってどんな人だったんだろう。
ドラマや映画の時代劇で、歌麿役が登場するのをたまに見かけるけど、大体「へんくつキャラ」だ。
それも北斎の「へんくつ」とはだいぶタイプが違う。

 「早く終わんねぇかな。」と思っている男の、ゾッとするほど冷たい目。
これは歌麿自身の目なんだろうか。
この目に映る女は、時代は、どんなものだったんだろう。
「気取ってんじゃねェよ。」とか言われそうだけど。



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