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橋本治「ひらがな日本美術史」第2巻「四睡図」 「意外とメルヘンなもの」 おじさんって良い。

 私には若い頃から、「おじさんウォッチング」というろくでもない趣味がある。

もちろんナンパしようとかされようとか、そういうものではない。
ただもう、おじさんが面白いから見るのだ。
別にバカにしている訳ではない。
「あら、あんなところに猫が。ノラかしら。」
という感じで、何の悪意もない。

 例えば、土手の上から草野球の試合をぼーっと見ているおじさん。
犬を連れて、工事現場をぼーっと見ているおじさん。
飲み屋のカウンターで、ひとりで腕組みをしてぼーっとしているおじさん。

こういうおじさん、もう私の大好物なのだ。
別に友だちになりたい訳ではないが。

「ひらがな日本美術史」第2巻の「四睡図」は禅画だが、なんだかこれも私の大好物ゾーンに繋がる世界観があるような気がして、つい見とれてしまう。

黙庵「四睡図」 14世紀

 黙庵は鎌倉時代後半に中国に渡った禅僧だ。
客死してしまって帰国する事がなかったので、日本では長く中国の画家だと思われていたそうだ。
厳密にいうと黙庵は禅僧だから、
「禅の思想にかかわってくる道教系の仙人と、仏教系の人物を描く"禅余画人"」。
プロかアマかで言えば、アマチュアの人だ。

 ああ、ここまででもうしんどい。
「禅」の話しはやっぱりややこしい。

そもそも私はこの「四睡図」に描かれている人物に興味があったのだ。
「四睡」とはそのまんま四つの眠りということで
ここに描かれているような、人物三人と虎一匹が体を寄せ合って眠る題材が「四睡図」と呼ばれる。 たとえば、

長沢蘆雪「四睡図」  18世紀

「四睡図」に描かれるのは、豊干禅師と虎と寒山と捨得。三人と一匹で「四睡」だ。
中央にいるおじさんが豊干禅師で、この人はいつも虎にまたがって旅をしている。
そして両脇にいるふたりが寒山と捨得。
豊干禅師の弟子である。
 この寒山と捨得が、私は大好きなのだ。

このふたりは中国の唐の時代の、実在したかどうかも謎の隠者で、彼らはアトリビュートとして、それぞれ巻物と箒を持っている。
どっちが何を持っているかは忘れたが。
ふたりは中国の国清寺という寺へやって来ては、
盗み食いはするわ大声で騒ぐわするので、寺はうんざりして、
「コイツらは文殊菩薩と普賢菩薩の生まれ変わりということにしとこう。
豊干禅師がオレの弟子だって言ってるんだし。」
と、なる。
ふたりとも身なりはボロボロだし、顔を見てみれば結構な年寄りだし、どこから見ても立派なホームレスなんだけど、なんと漢詩を書く知識人なのだ。「巻物」というアトリビュートはそういう事だろう。

禅の修行をして悟りを開く、そうして自由になる。自由になったらどうするか?
あるいは"自由であるような人はどのようにしているか?

寒山と捨得は、禅の修行が目指すような、"自由になってしまった人間"だということなのである。

 という訳で、これから「寒山捨得祭り」を始めます。

与謝蕪村「寒山捨得図」 18世紀


与謝蕪村「寒山捨得図」 18世紀

与謝蕪村は18世紀の俳人で、こちらはプロの画家。
そして「奇想の画家」、曾我蕭白の期待を裏切らないこのグロさ。

曾我蕭白「寒山捨得図」 18世紀

極めつけは、もうすでに「禅画」ですらない岸駒の寒山捨得。
岸駒ってだれか知らないけど。

岸駒「寒山捨得」 18世紀

 黙庵が14世紀に描いた「四睡図」の寒山捨得は
江戸時代後期になってとんでもない進化をしてしまった訳だが、これはこれで私はやっぱり好きなのだ。寒山捨得が。

 「ひらがな日本美術史」で初めて「禅画」というものに触れて「無我の境地」なる難解さに尻込みしてしまった私だが、禅画とは本当にそんなに難解なものなのだろうか。
だって「禅画」といえばこれも禅画だぜ?
(だぜって…。)

仙厓義梵「犬図」 18世紀
         「きゃふんきゃふん」って笑

仙厓義梵はれっきとした禅僧で、こういう絵もちゃんと描く人だ。

仙厓義梵「釈迦三尊十六菩薩羅漢図」 18世紀

仙厓は、ゆるーい絵として他にもこどもやカエル、花や野菜、馬、牛、虎などハンパない量描いていて見ているともう楽しくってしょうがない。
 虎は日本には生息していない動物だが、仏画には不可欠な題材だ。
豊干禅師だって虎にまたがっている。
仙厓も、実物を見たことのない虎を描くのに苦労したのか「虎画賛」という絵に「猫ニ似タモノ」と、自分突っ込みを入れている。

仙厓義梵「虎画賛」 18世紀

 仙厓のこういうゆるさを当時の人々も愛していた。
一筆描いてくださいと、誰も彼もが紙を持ってやって来るので「ウチは便所じゃねえっつうの!」とボヤいていたとか。
この人ホントに面白い。

 14世紀の黙庵の「四睡図」は、メルヘンだと橋本治は言う。

江戸時代の中頃に曾我蕭白の描いた"寒山捨得"は
リアルにグロな寒山と捨得の一典型でもある。
なんで曾我蕭白がこんなグロい寒山と捨得を描いたのかといったら、彼にはもう穏やかなメルヘンが信じられなかったからだろう。

 仙厓は曾我蕭白より二十歳若いが、仙厓の描く寒山捨得はなんだかそのメルヘンを取り戻しているかのように、穏やかで温かい。

仙厓「寒山捨得画賛」 18世紀

どの寒山捨得よりも、やっぱり私はこの「寒山捨得」が一番好きだ。

橋本治の短編に「寒山捨得」という小説がある。
私は行間を読むという事がほとんど出来ない人間なので小説は凄く苦手なのだが、このタイトルに
引っ張られて頑張って読んだ。
短編なのに。

橋本治の「寒山捨得」は、ふたりの男が出会って一緒に歳を重ねながら、山の中でペンションを経営するというストーリーだ。
どっちが寒山でどっちが捨得なのか最後まで分からなかったが、ふたりが出会ったことで、それまでの人生の生き辛さから解放されて、穏やかな自由が訪れる。
仙厓の描く「寒山捨得画賛」は、この物語をそのまま絵にしたように優しい。

 それにしても今回の私の投稿、やたらとおじさんが登場する。
漫画家の山田玲司先生が言っていたが、釣りも散歩も瞑想のひとつなんだとか。
そういえば釣りをしているおじさんも私の好物だ。
土手や工事現場にいるおじさん達も、あれはひょっとしたら「無我の境地」に思いを馳せる禅僧なのだろうか。
 
 私も人をおじさん呼ばわりできない年になってしまったが、「おじさんウォッチング」はなかなかやめられない。
だって面白いんだもん。
そして私が年をとった分、夫も同じだけ年をとった。
なんとわざわざ外へ出かけなくても、今や家の中で「おじさんウォッチング」が出来るのだ。
庭木の剪定を考えているのか、上を見上げてぼーっと突っ立っている夫を見ると、他人じゃない分盛大に面白がれる。

 尊い禅僧をそばで見て、ニタニタ面白がっている私は、じゃあいったい何なんだろう。
あ、これが俗人か。







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