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『 好きなものたち 』 .2





『 西洋の工芸 』



縦 約13cm         横 13cm


まずはタイルシリーズ。この一個は西洋の中世のタイルです。中々古いものですが、ちょっとどこのものかわかりません。そして、この模様も何が描いてあるのか分からないのです。しかしながら、何とも美しく、惹きつけられて止みません。


縦 約13cm         横 13cm


これは、オランダのデルフトのもの。暖炉の周辺やフェルメールの絵に描かれている様に、壁の下部などに貼られていたものです。青一色のものもありますが、これは多色のもの。何と言っても絵が素晴らしい。絵が精緻でデルフトタイルの中でも割と古いものではないでしょうか。

縦 約11cm         横 11cm


緑釉のタイル。ちょっとどこのものか分かりません。この緑釉はよくスペインやイギリスのものに見られますが、何とも深い味のあるもので心惹かれます。


径 約6.3cm         高さ 約3.5cm


これもデルフトの小さな容器。バターか何かを入れていたのでは?との事。何と言ってもその釉の風合いが素晴らしいです。もともと中国の真っ白な磁器に憧れて試行錯誤した結果だと聞いていますが、今となってはこちらのものの方が美しいと思うのです。しっとりとした何とも言えない肌合いです。羽根の様な形の取っ手が付いています。もっと大きくて、両側に取っ手がついているものがあるのですが、家内はそれが好きで、勝手に「天使の皿」と呼んでいました。こちらは片方のみ。


径 約11cm         高さ 約10cm


こちらはドイツのピッチャーだそうです。ドイツらしく無駄の無い、堅実なデザインです。まるでグッドデザインのものの様ですね。しかし無機的でなく形が美しく、豊かです。この辺が民藝の強みでしょう。


径 約6.5cm         高さ 約7.5cm


これは何とも可愛らしいピッチャー。ミルクでも注いだのでしょうか?イギリスの古陶を思わせます。造りにどこかおおらかな所があって、心和むところがあります。


径 約7cm         高さ 約16cm


ヨーロッパの面取りのガラスボトル。埋蔵されていたものらしく表面が銀化していて何とも美しいです。一見してその色合いに目が行くのですが、実はその形が素晴らしいのです。首が無くて残念です。あればさぞかし立派な物だったでしょう。古い物ではないでしょうか、形が厳しく、見事です。


幅 約54cm         高さ 約90cm


これは有名なウィンザーチェアー。本来ならとても私の手に入るものではないのですが、たまたま背もたれの一部に割れが見つかり、破格の値段で手に入れる事ができました。何とも嬉しい限りで、観ているだけでも充分なのですが、せっかくなので、自分で勝手に補強して思い切り使っています。昔は椅子にもこんな立派なものを使っていたものかと驚かされます。

幅 約41cm         高さ 約58.5cm


これは羊皮紙に書かれたグレゴリア聖歌の楽譜です。。色々に装飾されたものが有名ですが、こちらのものはいたってシンプルなもの。それだけに音符や文字、線の表現、構成が際立って美しく見えます。しかし、何故 昔は4線譜?





折りたたみができるワイン用の栓抜きです。何とも機能的で美しく、可愛らしいものです。良く考えられています。携帯用でしょうか?




『 日本の民窯 』



   左:高さ 約 57cm      径 約 54cm 
 右:高さ 約 45cm      径 約 47cm


これは仙台の堤焼の壺。中々に大きなものです。大きなものは、以前に友達から譲ってもらったもの。形、釉ともども申し分ありません。堂々たるものです。小さなものは学生の頃買ったもの。その頃は運搬手段が無かったので、紐で縛ってもらい、家内と電車と歩きで苦労して持ち帰ってきた思い出があります。少しこじんまりとしてしまったものですが、黒い釉と、流れた海鼠釉でしょうか白い釉の、少し青みがかった美しさがたまらなく好きなのです。
今はベランダに出しているのですが、光の加減などで時々はっとする程美しく、もう四十年以上にもなりますが、全く飽きると言う事がありません。

何でも毎日観ていたい私なのですが、さすがにこれらのものは困りました。しかし、どうしても観ていたい気持ちには勝てず、以前は狭い部屋に無理矢理置いていました。




『 体に入れるということ』


毎日観ていたいと言うのは、毎日体に取り込んでおきたいという事です。
誰でも経験があると思いますが、ある日、 楽しかった気持ちが体に残っている、映画でも、人の言葉、話、本の一節などでも、 強く印象に残ったものが、体に残っているーという事を誰でも経験しているのではないでしょうか。前にも書きましたが、骨董店で見た品が、その時はそうでもなかったのに何か体に残っていて、気になって仕方がない、私にもそんな事がよくあります。もちろん、それは意識してそうしているのではなく、表面的な意識ではない、もっと深いところの自分、自分の中の背後のものが感応したもの、それが表面的な意識に上がって来たものだと思っています。表面的な自分ではない、表面的な意識とは別のその背後に在る無意識の働き、「本来の働き」が私の中で最も大事なものを選んでくれているのだと思えるのです。ですから毎日体に入ると言う事、意識とは別に、この体に残ると言うこと、これを今度は意識して取り入れて行こうとする行為です。これは自分の最も大事なものの確認作業になるのです。「 そうだ!これだ!」という自覚するものの確認、摂取です。
これは例えば、ものを食べる事によって、意識せずとも勝手に体が栄養を取り込んでいるーというように考えると、分かりやすいのではないかと思います。そして取り込んだ栄養はやがて血となり、肉となり私達の活動の原動力になって行く様に、美に対する実感というもの、自分の体に取り込んだものは私達の活動の糧になって行くに決まっています。民藝運動の同人であり、人間国宝となった染織家の芹沢銈介氏は見事な古い屏風を手に入れた時、骨董店の主人に「 これで またしばらく頑張れます。」と語ったそうですが、美に対する実感というものはそういう力を持っているものだと思っています。


径 約46.5cm         高さ 約16.5cm


こちらは九州の二川のこね鉢。もう少し平たく大きなもので、内側に松などの絵が入っているものが有名ですが、これは無地のもの。しかし、形、釉、指描きなどの化粧、流れた釉垂れといい申し分ないものです。人から見れば、なんでこんな普通のものが好きなのか?と言われそうですが、正直私にも分からないのです。私の中では、完璧な造形に見えるのです。この様な普通の物の中に、何か無限のものを観じ得るようになった事、これが民藝を知る事により得た一番大きな事のような気がします。これも学生の時、学校帰りに骨董店で見つけ、びっくりする程安かったので、そのまま自転車にくくりつけて持って帰ってきた思い出があります。


しかし、すぐこうなります。



径 約30cm         高さ 約24.5cm


こちらも二川の鉢。これも学生の時に買ったもの。これは半分が焼けて、表面が剥がれてしまっているので、割と安く買えたもの、そうでなければとてもとてもー。
変則的ですが、この角度から見るとこの器が一番良く見えます。筆跡は強く、鋭く釉掛けも豊かで、線刻も強く、形もハリがあり強く締まっていて、この手のものとしては かなり初期のものではないでしょうか?後のものに比べると、まだ硬く、こなれていない感じはするのですが、何か力が溢れています。見るたびにビシっと心に納まるものがあります。どうも私が絵を描いているせいか、完全に模様化したものより絵画性が残るものの方に惹かれる様です。


径 約19cm         高さ 約9cm



これは会津本郷だったでしょうか?(ちょっと忘れてしまったのですが)、片口です。内側の海鼠釉が少し青みが混じる様な感じで、何とも美しいです。少し小ぶりですが、大きさを感じさせるものです。


径 約22cm         高さ 約12cm


これも確か東北のものだったと思うのですが、忘れてしまいました。申し訳ありません。どうもこの様な物に対する知識欲が無くて困ります。
こちらも人から見れば何でもないものなのではないでしょうか?。自分の中でも時々出てきますが、この様な、何でもないものに強く惹かれる事があるのです。自分でも良く分からないのですが、何か充実感と言うのでしょうか、自分の腹の底にズシリと落着するものを覚えるのです。


径 約18cm         高さ 約14cm


これは有名な益子の土瓶。民藝の世界ではあまりにも有名で、民藝の代名詞みたいになっています。正直この様な物を自分が買う事になるとは思いませんでしたが、ある骨董店で見かけて、やはりいつものように何か体に残るものがあったのですが決断できず、さらに二度三度見に行って、最後にようやく決定し買い求めたもの。
まだまだですね。蓋が無いのが残念です。
何と言っても線の見事さが尋常ではありません。胴に引かれた線や、取手を通す輪、注口につけた鉄釉の黒い線なども全体を引き締めていて、決まるべき所に決まっていて気持ちがいいです。数え切れない程の反復からこの線の確かさと自由さが生まれて来るのでしょう。野球のバッターやテニスプレーヤーのスウィングと同様、数限りない導線の中から、たった一つの「1線」が無意識の中で決まって行くのでしょう。全体の形もふくよかで豊かです。


径 約9.5cm         高さ 約7.5cm


こちらは鹿児島、平佐の急須でしょうか?これも蓋無しのものですが、しかし何と形の素晴らしいことか。釉調も美しいです。完成度が凄いです、富本憲吉を思わせると言うと言い過ぎでしょうか?これが民衆の実用普段使いと言うのですから驚きです。


径 約7cm         高さ 約10.5cm


これは初期伊万里の徳利。色々、窯で石が付いてしまいましたが、この手のもので、首が壊れていないのは珍しいのではないでしょうか。何と言っても模様が素晴らしい!
骨董店の主人も手放したくないような雰囲気で、こんな素人の若造に売りたく無かったのでしょう。「こんな古伊万里が手に入るとは思いませんでした。」と言ったら「古伊万里じゃないよ!初期伊万里だよ!」と怒られました。(初期伊万里の方が古く、骨董界では価値がある)機嫌を損ねてしまったようです。そう言われても〜。


径 約12cm         高さ 約3.5cm


これは初期伊万里の梅の花模様の皿。素晴らしい模様です。もっと梅の花模様らしく整っているものを見た事があるのですが、それに比べるとだいぶ崩れて、自由奔放になっているのですが、さらに美しくなっています。


径 約7cm         高さ 約5cm


これも初期伊万里の猪口。お馴染みの模様です。シンプルですが、爽やかで美しい模様です。元は柳の葉のモチーフだったと聞いていますが、ここまで要約されるものですね。こんな所が工藝の不思議な世界です。


径 約7cm         高さ 約10.5cm


よく分かりませんが、これは古伊万里でしょうか?こんな小さいものなのに造りは何とも緻密で、細部まで神経が行き届き気持ちがいいです。この様な所が職人の職人たる所以でしょう。もちろんそんな評価を下される様になったのは最近の事でしょうが. . . . .。とするならばそれ以前の職人は何故こんな立派な仕事を何の為にしていたのでしょうか?



これは、伊万里の碗。この種類のものとしては古いのかもしれません。模様がこなれていて、かなり自由な域に入っている様で美しいです。呉須の色も何とも言えずきれいです。


径 約11.5cm         高さ 約6cm


これは伊万里の碗です。もうかなり後のものではないでしょうか。全体に釉調も浅めですがこの模様が気に入っています。何かの植物の模様らしいのですが、ここまで来ると、もう何の模様か分かりませんが何ともリズミカルで素敵です。浜田庄司氏が、「 旧満州で焼物に花模様の絵付をしている子供に、何を描いているのか(何の草花か?)を聞くと、ネズミだーとの答え。強敵はいつどこにいるか分からない」 と書いていましたが、何かそんな世界を連想させます(1)。
<参考文献>
(1)浜田庄司.(1974).『無盡蔵』.pp.180.朝日新聞社.


径 約8cm         高さ 約6cm


これはごく一般的なそば猪口のもの。江戸時代の後半のものではないでしょうか。波に千鳥の模様ですが、何とも可愛いらしく、素敵な模様です。呉須の色も美しいです。こんなものが雑に扱われ、割れれば捨てられる運命の物とは、今にしてみれば信じられない時代です。


径 約11cm         高さ 約6cm


伊万里の碗。高台は小さく鋭く、厚みはいたって薄く、中は深いです。呉須の色、風合いは少し浅いのですが、意外に古いものかも知れません。模様が美しいと思います。自由ですが決して奔放ではなく、規則正しい模様ですが、決して機械的ではないーこの辺りの所が手工芸の面目躍如でしょう。

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