自己保身

 大學の自己研鑽的な空虚にも思えるやうな授業を履修している.いや,これは一回生の時に真面目に受講をせずに遊んでゐた僕が悪いのだが,そんなことはもう十分に解つたことなのだから,もうよいのだ.件のその授業では「自己表現文」なんてものを學生に書かせることが慣例で,弊大學の生徒は歯に衣を着せぬ物言いをすれば「出来が悪い」から,随分と悩み呆けたやうにした後にテーマに沿つた苦し紛れの数行を書きだして逃げるやうに提出をするのが常であつた.

 さて,僕がこの「自己表現文」とか云う課題を遂に敲きつけられて,しかも「生きる上で大切にしていること,将来の自分の理想像」なんてものに付いて論じろと云うテーマだったのだから,正直なところこれは随分と困った.僕には大切にしているものなんてなゐのだから.大切にする,と云ふのは能動的な信条だ.自身の中に社会において確固たる「財産」や「価値」を見出してゐるからこそ,大切にしようと思えるのではないか.僕は随分と華奢な自尊心を傷つけまいと生きてゐるのだから,これは何とも「生きる上で大切にしていること」とは言い難いのではないか.詰まるところ,自分が大事で,周りが見えてなくて,自身が必要とされなくなる恐怖とこの先社会で立派に一人前の人間として生かねばならぬ重圧に怯えながら,自己保身に必死な愚か者なのである.

 では,一體何を指針にすべきなのか.この社会が,自分に,諸君らに何を希求しているのか.様々な解があろうが,一つ私のideaを示すとすればそれは生産性であろう.社会に対して労働という形で寄与し,御駄賃を貰つて,生活を営む.それが何と清楚で,健全で,健康的なことか.働かなくとも,専業主婦や専業主夫と云うのも立派な生産行為だらう.家庭を育み,次世代に社会を託すため,愛情と教育をもって人材を育成するのである.では自分は?何にもない
のだ.あまりにも虚無である.浅学菲才,とはよく云つたものだ.どこで何を間違えたかはわからない.しかし明らかに何もかもを間違え続けてゐる.


 高校受験後,自身が愉しく思つてゐた「学び」は一瞬にして苦痛と化した.いや,逃げただけかもしれない.ともかく私は,今なお学ぶことへの苦悩と快楽を味わひながら,誇り高いとは世辞にも言えぬモラトリアムを享受してゐる.何も遣らないままに「出来ない」と喚き,社会にも出たくなければ努力もしたがらない餓鬼を,一體如何して救おうか.

 残らず皆がそんな具合であるから,僕にはとても将来の理想図なんてものを描けさうになゐ.10年後,20年後に如何生き偲ぶかなどと云うのは僕にとつて眞暗他ならない.日頃から僕が「大学院に往くのだ」「アカデミアに居る積りなのだ」と宣うのは何も前進的な意慾と自信に充ちた将来計画なんてものではなく,社会に馴ぬ僕が幽かに見ることの出來る唯一の道故のものなのだ.学問しか僕の財産と云うものは他になく,變に安心がするのだ.だからこそ僕は,丁度川で柳の葉が流されるやうに,学問と云うものを恋慕い手を取らうと,内省ゆえの漠とした希死念慮と自己嫌悪の最中に如何にか足搔くのである.

 苦悩は,美しいだらう.如何して明日を生きやうと云う氣迫と,吾身に熨しかかる重圧が,吐き出さんとする思想を彩どつてゐる.苦悩故に作られる芸術が,文学が,歌が,美しゐことは周知のことだらう.しかし,僕は苦悩をしてゐるのだらうか.こんな具合に僕は明るゐ未来を目指し直向きに歩む人に目を背けながら闊歩してゐるのでは無いか.己の弱さを,努力不足を,「もう沢山だ」とばかりに泣き伏せて,居心地の良いやうに彷徨ひながら自己保身に励んでゐる.なんとも空虚で滑稽に見えて仕方がない.

 実家の在る埼玉も,人生で一番に愛した恋人と過ごした京都の街も随分と遠くになってしまつた.一體僕はあの賀茂川の空も,丁度高瀬川を臨む典雅なバロック趣味のカフェーも,冬の細やかな朝日にひつそりと冴かへつてゐる岡崎公園も大好きなのだ.あの街は僕を嫋やかに受け止め,さうして考えるだけの僕を許すやうな,瞭然しない優しさが在るやうな氣がしてゐる.僕自身の稚拙な成長と,気紛れな希死念慮さえもを認めてくれたやうに感じて,僕は朗らかでゐられるだらう.
 
 遂に今日を終える,明日が來ると云うのが酷く怖ひ.遂に今日も僕は何も作り出せぬのだ,と自己反省会を開催してみる.おおよそ,このやうな暮らしは真面ではないだらう.如何だらうか,不圖考へてみる.京都から何百里も離れた奥州陸奥国は仙臺で,僕はいつまで正気で居られるだらう.どうせ來ない人を待ち,常にえたいの知れない何か偉大なる不安が先ゆく道に控えめな影を落として己を,総てを嫌悪させる人生を,いつまで終いにせずに居られるだらうか.寧ろ,終いにしてしまつた方が僕は幸せで居られるやうな気がするのだ.

 このやうな考えに陥つてしまうと,もうこれは答へなど出ないのだらう.少しでも,ほかの学生の様にはなるまいと,如何にも独り善がりで鬱々とした内省をそのままに紙に描くこととしたのだ.1000字以上,などと云う指示が霞んで見えるほどに苦悩を愚痴の様に吐き出した原稿用紙は,幾らか重さうに見える.担当教員は苦笑しながら受け取つて下さつた.彼も文学の教授であり,太宰治のレトリカを研究しているやうなのだから,この位の理解は示してくれるだらう.

 今日を辛うじて生きてしまつてゐる.どうせ独りなのだ.さうして,かばー硝子のやうな酷く脆くて割れさうな自尊心を,丁度可憐な花に触れるように愛おしそうに撫でながら,すっかり朗らかな顔で嘲うのだ.


郁香

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?