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「失われた30年」とかいう人を好きになれない

 なんとなく、「失われた30年」とか「失敗続きの20年」とかいっている人が好きになれません。なぜそうなのかを、いろいろ考えてみました。
過去の失敗をいまとやかく言っても仕方がない
 いま深刻な問題があるなら、さしあたってすぐ対処することが正しいのではないでしょうか。火事が燃えているのに、火を消さないで火事の原因をあれこれ探しているようなもので、道義的にいかがなものか。現場で症状に対処することと、別の立場にいるヒョーロンカとは、その覚悟が違うのです。
なぜそんなことを言いたがるのか
 「失われた30年」論者たちが、なぜそういうことを言いたがるのかを考えると、たぶんこのままだともっとヤバいことになるという、無知蒙昧な国民に向けての警世の発言であり、その未来への悲観論つまり破局の予想は、結局は、予言の実現を待望する破局論者になってしまうのではないでしょうか。(そのことは、前のブログ「話を大きくする人たち」の中で「破局を待つ人たち」として書きました。)まあ、読んでいて楽しくないです。未来については考えないほうがいいのかもしれません。「未来が人を不安にさせて病にさせている。」と中井久夫がどこかで書いていたような気がします。
自分たちの30年も失敗だったのか
 「失われた30年」論者たちが60歳以上であるなら、ご自身の30年はどうだったのでしょうか。悲惨で貧しいままで苦労し続けているひとであれば、こうした「失われた30年」をみづからの境遇とあわせて慨嘆し、世の中にむかって悲憤慷慨の発言をされるという、その論者の胆力には敬服するばかりです。ただおおくの「失われた30年」論者たちの生き方はそうでもないようです。みなさん、そこそこ幸せだったのではないでしょうか。タワマンに住んでBMWを乗り回し別荘生活をエンジョイしながら「みんなで貧しくなろう」と説く団塊の世代の評論家たちのように、若い世代からは「逃げ切り世代」と指弾されているかもしれません。自分たちは、まあまあそこそこうまく暮らしてきたけど、あろうことかそれは棚に上げて、自分たち自身も責任の一端はあるはずのこの30年の無策を責めてやまないのです。「棚に上げる人たち」
ほんとうに失敗だったのか
 ひょっとすると彼らは30年前のバブルの成長がそのまま続けばよかったとおもっているのかもしれません。平成30年間は壮大な失敗だったと颯爽と断言した吉見俊哉は、日本の低成長・停滞・財政破綻をこれでもかと、(財務省の役人のようにあるいは新自由主義者のように)書いています。(「平成時代」2019年)あのままの経済成長が可能だったのか。今根本的に経済成長が見直されているのは、ふつうの社会学者ならわかることではないでしょうか。斎藤幸平は「気候正義」をてこに地球の破壊をとめるために経済成長という神話をいかに打破するかに頭をひねっています(「新人世の「資本論」」2020年)。日本の経済学者は相変わらず、欧米に比べての経済成長や生産性の低さを批判していますが、欧米は日本の目標・理想となるのでしょうか。
経済成長論への批判
 ヴォルフガング・シュトレークは国際金融資本に支配されたEU内部での激化する矛盾を指摘し、幻想としての共同通貨(自国通貨の発行権を持たないギリシアが当然のように経済破綻させられ、ドイツに収奪されたと書いています。余談ですがドイツは欠陥品の潜水艦をギリシアに売りつけたらしいです。)、新自由主義による行政改革という民営化の動機とメカニズムとその悲惨な結果などを書いています。(「資本主義はどう終わるのか」2017年)国際金融資本による経済原理?経済イデオロギーの主導によって、政治的決定から疎外された「政治」はいまやエンタメ化して、せいぜいイシューとしてのジェンダー論かスキャンダルしか扱えなくなっていると皮肉っています。
 デビッド・ハーヴェイもまた同じ視点で、資本主義を批判しています。国際金融マフィア(国際金融財閥・世界銀行・IMFなど)が、経済危機のたびに対象国から社会的経済的収奪を行うとみています。いまや帝国主義的戦術は必要なく、「自由貿易」という慣行を推進するだけで、先進国の資本集約型価値体制はバングラデッシュの労働集約型体制を搾取し続けるのです。「世界」に「自由」が存在することにより底辺の競争を強いられる人々が増え続けていると述べています。(「経済的理性の狂気」2019年)
 話が大げさになりましたが、ようするに、低成長でもいいじゃないかと言いたかったわけであります。
 

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