幽霊は存在しない

 子どもの頃は、幽霊が怖かった。話に聞く、暗闇に浮かび上がる白い恨めしそうな顔とか、誰もいないのに聞こえて来る声とか。

 自分でも、よく金縛りにもあっていた。そういうとき、耳元で人の声が聞こえたりとか、足元に小さいお婆さんが座っていたという経験はある。

 でも、金縛りは脳だけが先に目覚めて、身体がまだ寝ている状態だと知った。そうすると、金縛りのときに聞こえて来る声や、見えたものというのは、夢見心地のなかの幻覚・幻聴なのだろうと思った。

 そのうえ、進化論を学ぶと、アレ?と思うようになった。
 というのも、我々は「幽霊」というとき、生前の記憶と姿を持ち、生きている人の存在を認識し、生きている人に語りかける存在としてイメージしている。つまり、霊体だけで、記憶することができ、見ることができ、聞くことができ、言葉を操ることができるということだ。霊体だけでそんなことができるなら、生物の進化ということが、なぜ起こるのだろう?

 進化というのは、おおまかに、こういうことだ。
 突然変異によって、たまたま手に入れた形態や能力が生存に有利だったために、その個体が長生きして子孫も多く残す。その結果、その形態や能力が次の世代にも受け継がれ、当たり前の形態や能力になっていく。その積み重ねが進化だ。
 それから、言葉などの文化は、そういった文化を持った集団が他の集団よりも強かったり、その文化が便利だったために他の集団を飲み込んで広がっていく。

 さて、霊体だけで記憶できるなら、脳があるかどうかとか、その容量が大きいから小さいかで、生存に有利・不利はないはずであり、そうすると脳の機能が進化する必然性はなかったということになる。目も同じ。霊体だけで見ることができるなら、目の機能が進化する必然性はなかった。

 言葉も同じ。むしろ言葉を使わずに意思疎通できる方が便利だし、そのような集団の方が強いはずだから、言葉を使うという文化が広がるはずはなかった。

 逆にいうと、霊体だけで記憶したり、見たり、意思疎通したりということができないから、生物には脳や眼があり、言葉を使うこと文化が広がっているということになる。つまり、霊体だけで記憶したり、見たり、語りかけたりするということはできないはずで、結局、怖いと思うような幽霊は存在しない。

 それから、幽霊が生前の姿で現れるということについて、物理的に肉体がないんだから、普通に考えたら、そんなことができるはずがない。ありうるとしたら、その原理としては、霊体が、他人の脳に直接働きかけて映像を見せているとしか考えられない。もしも、霊体にそのような能力があるならば、その能力は生存に有利に働くはずだから、社会に広がっているはずである。ところが、実際には、そんな能力は広がっていないのだから、やはり霊体に、そんな力はないということになる。やはり、我々が怖いと思うような幽霊は存在しないということになる。

 なお、「人類は昔はテレパシーなどの能力を持っていたが、文明が発達して便利になるにつれて、能力が失われていった」という意見もありうる。しかし、もともと、そんな便利な能力を持っていたのなら、文明を発達させる必要がなかったのではないだろうか?そんな能力がなかったからこそ、人類は、工夫に工夫を重ねて文明を発達させていったのではないだろうか?

 ただ、注意すべきは、「幽霊」は、怖いだけの存在ではなく、身近な人を失ったとき、魂が残って見守ってくれているという思いが心の支えになるということで、そういう心の支えまで、闇雲に否定すべきではないと思う。そこは、ファンタジー的ではあるが、信じていいと思う。
 また、あくまでも論理的に考えていくとするならば、人は、自分が他人を認識しているから、他人が存在すると確認することができる。 そうだとすると、亡くなった人のことを、親しい気持ちでリアルに思い浮かべることができるなら、自分にとっては、亡くなった方も生きている人と変わらないということになる。そうすると、亡くなった方のことを忘れないであげること、出来るだけリアルに思い浮かべてあげること、それが最大の供養ということになるのだろう。

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