23/12/14

数年前の自分のツイートを読んだ。
相変わらず死にたがっている。
主張の仕方が違うだけで内容はいつも同じだ。

死にたいのではなく、諦めたいの。
ずっとわかってる。

期待をするのを、希望を見るのを、辞められない。なまじ丈夫な心身が、何度痛い目をみてもわたしを同じところに引き摺り込む。

学びが無いからといって、じゃあ学習性無気力的な人生でいいのかよ?
わたしはずっと地団駄を踏んでいる。

わたしを大事にしてくれる人がまだいる。
毎度驚く。まだ、見捨てられずに済むのかと。

愛されている自覚がある。
大小の問題ではない。
視線の柔らかさを知っている。
それだけで何も、十分だ。

だから、わたしが学びを捨てるように傷つく姿を見せては良くないと分かってる。でも、わたしは地団駄を踏むのをまだ辞められない。
それでも、最近やっと、そんなことをしなくてもいい予感が少しだけしてきてる。

別人のような生活の動きをして、そうしてやっと、違う選択肢が薄く見え始めた。心の底からの、納得を得られるような選択肢が。

わたしは変わってきている。変質ではない。
それは水彩を重ねていくような、織り上げていくような、そういうもので。何も変わっていないけど、積み上げた分だけ、見え方が変わっていく。わたしは今なにいろに見えるだろう。

手を伸ばすことが出来るようになった。躊躇いの先に、捨て身をしなくても視線を向けられるようになってきた。


わたしが愛していた記憶の中のわたしの感情を、いまのわたしが持つことはきっともう出来ない。
あの頃のわたしはいない。経験は、直接的に人格だ。わたしはいま、誰なんだろう。

美しいものが、好きだ。
そういうものに囲まれることを選ぼう。


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