他人事


言葉は常に他人事だな。
言葉としてつかんだときには、どうしてか変質してしまいそう。
だけど、言葉以外では残すのは難しい。
言葉より、定義が明確なものはない。
だから、後に見た時にアウトプットの瞬間の気持ちからブレが少なく済むように思う。
だけど、それは余白の無さでもあるんだろう。

まにちゃんに、写真を撮ってもらう時。
いつも少し気取ってしまう。
なんだか良い時間を提供しなきゃいけない気分になってしまう、その感覚こそがあらゆる本質から逆行して遠ざかることなのはずっとずっと分かっているのに。
出したくても出せない、隠したくとも隠せない、半端な情動。

だって、友達には笑顔でいてほしい。
楽しそうにしてくれると嬉しくて安心する。

なんて、そんな綺麗なはなしだろうか。
結局わたしは、わたしの悲しみを受け取ってもらえないことにずっと怯えていて、そして、同じくらいの諦観を覚えている。
でもその諦観も半端で、いつか、だれかに、そう思うことは辞められない。
「どうせ」と「いつか」が共生し続ける。

目隠しして左手で描いたような螺旋がある。感情と思考は乖離しているのに分離はしていない。

わたしの本質は、怯えなんじゃないかと、最近は思う。あらゆることに怯えてる。怯えてるからこそ、包み隠してはいけないことを理解している。いいよな。隠したままで、自覚しないままで、平気だって思えるやつらは。わたしは怖くて、隠したままで何とかなるなんて、できるなんて、思えないよ。腹の底。

いいよな、自分の怒りに他者から見た時の正当性があると思えるなんて、幸福だよ。思考と感情が一致しているなんて、羨ましい。

正誤ではないさ。


愛しいものが増えるということは、殺すものが増えるということだ。
大事にするということは、大事にすることをやめることだ。
それで良いって、感覚が思い知ること。
わたしのしばらくの目標。

言葉をそれでも、貰いたいと常に願っている。
言葉は他人事だから、どこまでも愛情だ。

祈っている。願っている。きっと、そうでありますように。そうしてきたから、愛情を知れた。わたしはわたしで良いと、教えてくれるうしろ。

きっと、大丈夫だよ。

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