箸は転がる

傷つかないで生きていくのがむずかしい。
弱いから強がらないといけない。意味ないのに、ってどこかでわかっていながら。
傷つけないでほしい。嘘をつかないでほしい。それだけなのに、それだけがむずかしい。
いやなことしないで、いやなこといわないで、それだけなのに、それだけがむずかしい。
うそつきって問い詰めるのも、くそやろうって罵倒するのも、すごく簡単で、だけど簡単に、そんなことはしたくないのに、簡単だから。
仲間はずれはこわいからきらい。誰のことだって。だけど、それじゃあ、なにも守れなくて。
わたしの歪みが箸が転がるだけでわたしを切りつけるなら、わたしはその傷を死ぬまで甘んじて受けることしかできない。ほんとうに死ぬまでそうする以外にどうしたらいいのかわからない。箸が転がるだけで、わたしが痛いのが悪いから。箸を転がした人は、本当に悪かったかな?誰のことを責めたって何も得られないのは知っている。
箸が転がる仕組みを変えなくてはいけない。箸が転がって痛いわたしのことを変えなくてはいけない。そうじゃないと何も変わらない、ただ、死にたくならない程度の痛みが死ぬまで続く絶望に、ゆるやかな希死念慮を孕ませていくしかない。

どうして、弱いひとは、殴られてからしか対応できないんだろう。どうして、まず殴られないといけないんだろたう。舐められてるから、でしかなくて、一度まず傷つけられないといけなくて、法は全てそのように出来ていて、抑止力になるのは、もうわかりやすい強さしか無い。殴る前に殺されると、殴ってくるやつに分からせるしかない。
弱いことは罪だ。

守られたい。守られて間接的に強くなりたい。誰かの、だれかの威を借りたい。「俺のバックにダァレがついてると思ってんだァ?!」と啖呵をきりたい。ダサくても、もう弱いよりぜんぜんマシなんじゃないの。

俺のバックの存在で、俺の大事なものも守りたいな。舐めた口きくんじゃねえぞって、やれる根拠のある強さがあったらな。
そんなこと、別にしたくないけど。

やらなきゃいけないこと、やった方が良さそうなこと、やらない方がいいこと、やらない方が良さそうなこと、それぞれは、まったく、やりたいこととは関係がないのに、どうしても、そんな風に繋げなくては、何もなされない気がして、どうしたら良いのか惑ってしまう。


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