愛と誠のはなし

ブラックととろさんと、オンライン上で話をして気持ちが盛り上がっているのでここにわたしのお気持ちをしたためます。


わたしが、いつか気持ちよく死ぬためには、心が死なないように、腐らないように、そうやって生きてゆくことが必須条件だと思っている。
まあ、抜け道で完全なる絶望も存在しているけど、それは割愛。その道の方が険しいから。

わたしは愛に対して高い理想をもっている。
夢を見ているともいえる。
その理想を追い求めて、自分の中や他人の中に、それを常に探している。そして、これまでの人生の中で「そんなものは存在しない」と断言しなくて済むような関係性の中で息をしてこれた。強運です、わたしは。
愛には、覚悟がいる。
愛されることにも、愛することにも、能動性が無いと受け渡しができない。そして、その能動性には痛みが伴うと思っている。
だからこそ、その痛みを踏み越えてまで、そうであることを選べる人間を、そこに至ろうと目指す人間を、心底尊敬する。

反面、愛を軽んじている人間に対しては強い嫌悪がある。魂が汚れてるとさえ思う。人や、自分の感情を軽んじて扱い、その中で何かを得られると思う浅はかさを軽蔑してる。その言動に滲む淀みは、伝染してゆくものだ。

感情は、移ろいゆくもの。それは間違いなく。たくさんの瞬間的な感情を織り重ねていくことで、大きな感情に育ってゆく。それ自体に罪はない。けれど、愛を一度でも謳うならそれに対して誠実であらねばならない。偽りがあってはいけない。積極的に気づかねばならない。その違和に。

思えば、わたしはたくさんの試し行為を自分にしている。こうであるなら、そうするはずだ、ということをたくさん自分に試している。そうやって繰り返し、自分の中にあるものの手触りを正確に認識しようとしてきた。
そして、きっと、わたしと深い関係になる人間にはそれを強要することもあったろうと思う。

強迫観念めいた精神的な潔癖は、わたしが夢を見ているからに他ならないのだと、やはり思う。
わたしの夢を邪魔するな、愛を舐めるな、わたしの世界への認識の純度を下げるな、そんなふうに思い続けている。そんな怒りをたたえている。精神的に不潔な人間は、視界に入れたくない。

高貴な人に、恵まれて生きてる。それを、信じさせてくれる人の顔がたくさん浮かぶ。
一度、信じないとだめなの。無いものと決めつけてしまえば、そこにもし美しいものが小さくても隠されていたとしたらそれを見つけられない。そんなのはだめ。わたしは欲しがりで、卑しんぼで、寂しがりだから、そんなのは我慢できない。裏切られてから、憎しめばいい。それで足りる。わたしは愛されてきたから。いつまでたっても、その希望を捨て去ることが出来ない。諦めることが、出来ないの。ごめんね。

みんなのことが好きなの。わたしと笑ってくれてありがとう。

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