きらきら
愛について。
愛は、やっていくものなんだ。ただ待っていれば発生して、差し出したり受け取ったりできるようなもんじゃない。
誠実さとは、不理解を責め立てるための道具じゃない。
ありのままを、行き交わすことが、喜ばしくあること。瞬きのタイミングがズレていたとしても、見つめ合った事実を尊ぶこと。
愛に固執して愛を蔑ろにしてしまう構図。
ねえ、きみは、ステーキを食べたいときに、自分がステーキの何を求めているのか、考えられる?
肉と米の組み合わせ?ジューシーな肉のグリル?にんにく醤油の香ばしさ?それとも端の脂身?
それは、ハンバーグでは、角煮では、チャーシューでは、牛丼では、本当にダメ?
欲しい要素を分解して、その上でどれがほしいからその対象を求めているのか、わかる?
にんにく醤油と肉が好きなのに、おろしポン酢じゃ物足りないのは当たり前じゃないか。それでもおろしポン酢で生きていくと決めたなら、管を巻くのは辞めろよ。
愛されることを望むのは、求めている形が存在している。その形に合わないなら、どんなに上質なものでも不和が起こる。
愛することさえ、知っていれば。
愛はどこまでも希望で、だからこそ終わらない絶望がある。無かったことにはできない気持ちが、わたしの胸に生涯巣食う。わたしは愛してきたし、愛されてきた。そこにあったのだから、まだきっとあるのだから、希望が可視化されているのに、わたしは何かを辞めることはできない。諦められない。たくさん間違えていて、恥ずかしくても、そうやって渡されてきた尊いものを、気軽に踏みつけることはできない。
わたしは弱くて、傷つきやすくて、それでもどうせ大丈夫で、どうしようもないのに、そんなわたしがなるべく傷つかないように、怒っていたのにその中でも表現を選んでくれたことを、そういう愛し方を教えてくれたことをきっと忘れない。当たり前だと思う人もいるのかな。
でも、命は尊いものだと知っていても、蟻の命を尊べるひとはどれくらいいるのかな。
何もかもが当たり前で、何もかもが当たり前じゃないよ。
笑顔は当たり前じゃない、それを向けられる喜びを知ることから始めないとね。
愛のためにしか生きていけない。汚れきってやるせないのに、まだ少し優しい世界のことを許して生きるためには。汚いのに、まだ綺麗なものがあるから。それだけが綺麗なのはずっとずっと変わらないから。泥濘みから、一粒の砂金を拾い上げるように、そうやって息をしていく。
そうするしか出来ない。
砂金の煌めきがメッキだったら、それを剥がして、それを割って、その奥まで、探してく。そうして、それでも、違ったら、運が悪かったねって、もう持ってる両手いっぱいのきらきらを見て、笑えるよ。
わたしはそれでいい。そういうのでいいの。誰にも分からなくても。物好きが知ろうとしてくれても。きっと、それでいいの。
わたしは諦めない。愛に殉じることを。全ての理を凌駕するものを。たった一つのために、どこまでも行けることを。まだすこし、はやいから。
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